取引から“循環”へ――老子から学ぶ「水のように巡る経営」のデザイン

取引から“循環”へ――老子から学ぶ「水のように巡る経営」のデザインの手描きアイキャッチ

増田みはらし書店・店主の増田浩一です。

「上善は水の如し。水は万物を利して争わず、衆人の悪む所に居る。」

老子のこの言葉に、ときどき立ち返ることがあります。 経営や組織、あるいは自分自身の在り方を考えるとき、水という存在が持つ不思議な力に、何か大切なヒントが隠されているような気がするんです。

水は奪わない。
押しつけない。

ただ流れながら、あらゆるものを潤していく。

その動きは静かで、しかし確かに世界を形づくっています。

ビジネスや取引も、本来はそのような流れの一部なのではないでしょうか。

取引は「点」ではなく「流れ」の一部

私たちは日々、さまざまな取引をしています。 商品を売る、サービスを提供する、対価を受け取る。

短期的に見れば、それは1対1のギブアンドテイクに見えます。

「これを渡すから、あれをください」という、シンプルな交換。
会計上も、取引はそのように記録され、その瞬間で完結したかのように扱われます。

でも、もう少し長い時間軸で眺めてみると、見え方が変わってきます。
その取引は、実は大きな循環の中で起きている一瞬にすぎないんです。

あなたが提供した価値は、顧客の中で何かを生み出し、それがまた別の誰かへと流れていく。 顧客の課題を解決する行為も、誰かの行動を支援する仕組みも、社会という生態系の中で流れる「価値の水脈」に繋がっています。

取引を「点」として見るのか、「流れ」として見るのか。
この視点の違いが、経営の質を大きく変えていくような気がしています。

水は留まらない――滞りが生まれるとき

水には、ひとつの原則があります。 それは「留まらない」ということ。

水は常に動いています。

高いところから低いところへ、
川から海へ、
そして雲になって再び大地へ。

形を変えながら、止まることなく巡り続けている。

逆に言えば、水が留まったとき、そこには問題が生まれます。

淀んだ水は腐り、流れを失った川は干上がる。 循環が途絶えた場所には、必ず「滞り」が生じるんです。

経営も、まったく同じではないでしょうか。

近年、多くの企業や組織が「新しい事業」「新しいプロジェクト」を次々と立ち上げています。

イノベーションを起こそう、変革を起こそうと、懸命に取り組んでいる。

けれど、その多くが思うような成果を生まず、やがて静かに終わっていく。 なぜでしょうか。

それは、「循環のデザイン」が欠けているからかもしれません。

どんなに素晴らしいアイデアでも、流れを伴わなければ、やがて滞ります。

「何を作るか」だけを考えて、「どのような循環を生み出すか」を考えない。
そうすると、水のない川を作るようなもので、構造だけがあって命が宿らないんです。

新しい企画や施策を考えるとき、私たちが本当に問うべきは「何を売るか」ではなく、「何を巡らせるか」なのではないでしょうか。

顧客や社会の中に存在する「滞り」を見つけ、そこに流れを取り戻す。 その流れが、誰をどう潤し、どこへ向かっていくのか。 そのデザインこそが、経営の本質だと思うんです。

水は形を持たない――柔軟であることの強さ

水には、もうひとつ面白い性質があります。 それは「形を持たない」ということ。

水は器に注がれれば器の形になり、川を流れれば川の形になる。 どんな環境にも適応しながら、しかし本質を失わない。

この柔軟性が、水の最大の強さなのかもしれません。

経営においても、同じことが言えます。

固定された形や方法論に固執すると、環境の変化に対応できなくなる。

「これしかない」と思った瞬間、循環は止まってしまいます。

でも、目の前に現れる可能性に対して柔軟であること。

予期しないオファーや提案を、まずは受け入れてみること。 「流される」という言葉はネガティブに聞こえるかもしれませんが、水のように流れに身を任せることには、実は大きな力があります。

抵抗せず、しかし確実に前に進む。 地形に沿いながらも、必ず海へ向かう。

流れを感じ取り、可能性に身を委ねながら進んでいくこと。
その姿勢こそが、予期しない循環を生み出し、思いがけない価値を創造していくのではないでしょうか。

水は高きを避け、低きに流れる

老子の言葉には、こんな一節もあります。

「水は高きを避け、低きに流れる。」

これは、経営者やリーダーの在り方を考える上で、とても示唆的です。

循環を取り戻すには、「上から眺める」だけでは不十分なんです。 現場に降りていくこと。顧客や社員の「なぜ困っているのか」に耳を傾けること。 その痛みや悩みに、共に居合わせること。

滞りは、往々にして「低いところ」にあります。 誰も見ようとしない場所、誰も触れたがらない問題。
そこにこそ、流れを再生させる鍵があるんです。

経営者が現場の声に降りていき、 企画者が顧客の悩みに関与していく。
その姿勢が、止まっていた水を再び動かす力になります。

「上に立つ者は、下に身を置く。」

それが水の道であり、循環を生み出す原理なのかもしれません。

水は争わずして全てを潤す

最後に、もう一度老子の言葉に戻ります。

「水は万物を利して争わず。」

水は誰とも競争しません。 奪い合うこともなく、ただ流れながら、出会うものすべてを潤していく。

ビジネスは、しばしば競争の場として語られます。 シェアを奪い合い、勝者と敗者が生まれる世界。

でも、もし視点を「取引」から「循環」へと移したら、どうでしょうか。

経営とは、奪い合うことではなく、流れを整えることなのではないか。 自分だけが潤うのではなく、関わるすべての人が潤う循環をデザインすることなのではないか。

そう考えると、ビジネスの意味が少し変わってくるような気がします。

顧客との関係も、取引先との関係も、社員との関係も。 それらはすべて、大きな循環の中で繋がっている。 その流れを感じ取り、滞りを見つけ、再び巡らせていく。

水のように柔らかく、しなやかに。 けれど、石をも穿つほどの強さで。

経営とは、そんな流れのデザインであるべきだと思うんです。

私たちは、もっと「流れ」を信じてもいいのかもしれません。 固執せず、可能性を感じ取りながら、水のように巡っていく。

その先に、予期しない充実が待っているような気がしています。

それでは、また来週お会いしましょう。

ちなみに、老子については、こちらの1冊「老子OS、起動せよ!!“上善如水”で生きるには!?『老子 あるがままに生きる』安冨歩」をぜひご覧ください。

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