誰かに何かをしてあげるとき、わたしたちは迷わず「相手のため」だと思っています。
でも、ふと後味に気づく瞬間があります。
感謝されなかった時の、あの小さなざらつき。「ありがとう」の温度が思ったより低かった時の、あの引っかかり。
相手のためだったはずなのに、なぜわたしは傷つくのか。
そこで初めて、優しさという動詞の中に、もう一人の自分がいたことに気づきます。
優しくする、その文の主語はわたし。でも目的語もまた、実はわたしだった。
優しくされたい自分が、優しくする自分の中に、最初から住んでいたのかもしれません。
主語と目的語が同じ人物である文。それは偽善という名前をつけて切り捨てるには、あまりに人間的すぎる構造です。
エゴのない優しさを探すのは、影のない光を探すようなもの。見つからないのではなく、そもそもそういう作りになっていないだけ。
だとすれば、目指すべきは純度ではないのかもしれません。
優しさは、エゴを手放した先にあるのではなく、エゴを抱えたまま差し出す手のことかもしれません。
この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。
