まだ名前のない言葉 #0012|優しさは、エゴを抱えたまま差し出す手のことかもしれません

誰かに何かをしてあげるとき、わたしたちは迷わず「相手のため」だと思っています。

でも、ふと後味に気づく瞬間があります。

感謝されなかった時の、あの小さなざらつき。「ありがとう」の温度が思ったより低かった時の、あの引っかかり。

相手のためだったはずなのに、なぜわたしは傷つくのか。

そこで初めて、優しさという動詞の中に、もう一人の自分がいたことに気づきます。

優しくする、その文の主語はわたし。でも目的語もまた、実はわたしだった。

優しくされたい自分が、優しくする自分の中に、最初から住んでいたのかもしれません。

主語と目的語が同じ人物である文。それは偽善という名前をつけて切り捨てるには、あまりに人間的すぎる構造です。

エゴのない優しさを探すのは、影のない光を探すようなもの。見つからないのではなく、そもそもそういう作りになっていないだけ。

だとすれば、目指すべきは純度ではないのかもしれません。

優しさは、エゴを手放した先にあるのではなく、エゴを抱えたまま差し出す手のことかもしれません。


この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。

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