中屋敷均『科学と非科学 その正体を探る』――手持ちのカードの「解釈」から、物語は始まる

中屋敷均『科学と非科学 その正体を探る』の書影と手描きアイキャッチ

この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール

【経営ビジョンの視点で読み解く本書の核心】科学とは、絶対の真理を打ち立てる装置ではなく、修正を重ねながら生き延びていく生命的な営みです。中屋敷均さんは、その可塑性と、偶然に意味を与えてしまう人間の性質の両面から、私たちが物語を紡ぐことの意味を問い直しています。
 
1.科学は生命として生きている:科学は固定された真理体系ではなく、修正と適応を重ねることで存在を更新し続ける、生き物に似た営みです。
2.誤謬こそが物語を生む:偶然の連続に意味を与える人間の性質は、単なる思い込みではなく、遺伝子を動かし、空を飛ぶ夢を実現させてきた力そのものです。
3.所与のカードから始める経営:与えられた条件をどう解釈し、物語として紡ぐかが、組織のパーパスとビジョンを形づくる出発点になります。

  • 私たちはなぜ、自分に配られた条件の意味を、あとから物語として語り直したくなるのでしょうか?
  • 実は、科学という営みそのものも、絶対の真理を打ち立てる装置ではなく、修正を重ねながら生き延びていく生命的なプロセスです。
  • なぜなら、正しさとは繰り返し起こることを法則化し、その法則を他の現象にも応用できて初めて成り立つものであり、その前提自体が絶えず更新され続けているからです。
  • 本書は、分子生物学者である中屋敷均さんが、科学と非科学の間に広がる「薄闇」に光を当てながら、科学という営みの可能性と限界、そして人が意味を紡ぐことの本質を問い直す一冊です。
  • 本書を通じて、所与の条件から出発しながらも、そこに物語を与えることで前に進んできた人間の営みと、それが経営やビジョンづくりにどうつながるのかを、ご一緒に考えていきたいと思います。

中屋敷均さんは、1964年に福岡県で生まれ、京都大学農学部農林生物学科を卒業後、博士(農学)を取得されました。現在は神戸大学大学院農学研究科の教授として、植物や糸状菌を材料にした染色体外因子、つまりウイルスやトランスポゾンの研究に取り組んでいらっしゃいます。

2016年には『ウイルスは生きている』で講談社科学出版賞を受賞されており、生命という現象そのものへの独自の視座を、科学論の分野にも展開し続けている研究者です。趣味は将棋、山歩き、テニスとのことで、勝敗や自然の不確実性と向き合う営みを、日常の中でも楽しんでいらっしゃるのかもしれません。

分子生物学という、生命の最も基層的な仕組みを扱う現場にいるからこそ、科学を「正しさの体系」としてではなく「生き延びていくプロセス」として語ることに、独特の説得力が生まれているように感じます。

科学は「正しさ」ではなく「可塑性」で生き延びる

科学的に正しいということは、実は思われているほど単純な話ではありません。ここでは、科学という営みを支えている前提そのものと、それを蝕みかねない権威主義の危うさについて、考えてみたいと思います。

帰納法と演繹法が支える「正しさ」という前提

科学における「正しさ」は、大きく2つの考え方に支えられています。

ひとつは、これまでの観測や経験から法則を導き出す帰納法です。
もうひとつは、その法則から個々の現象を予測できるという演繹法です。

たとえば、リンゴが木から落ちるという繰り返し起こる現象を法則化できれば、それは帰納法的に正しいということになります。そして、その法則を使って星と星の動きまで予測できれば、演繹法的にも正しいと信じられるようになります。

帰納と演繹については、こちらの1冊「人とAIを隔てるものとは!?『アブダクション 仮説と発見の論理』米盛裕二」もあわせてご覧ください。

しかし、この2つの考え方が成り立つためには、重要な前提があります。それは、この世界が同じことをすれば同じ結果が返ってくるように、一貫してできているという前提です。この前提が絶対的に正しいのかどうかは、実は誰にも分かりません。ただ、それに基づいて構築されたものが、現代科学の根幹となっているのです。

科学と非科学は、そんなに簡単に区別できて、一方を容赦なく断罪できるものなのだろうか。

この一節は、科学という営みが、実は常に「そうであろう」という信頼の上に成り立っていることを、静かに突きつけてくるように思います。

権威主義は科学の生命力を蝕む

科学が生命に似ているというのは、単なる比喩ではありません。

過去の蓄積をきちんと記録し発展させる仕組みを持っていること、そして誤りが見つかれば漸進的に改めていく仕組みを持っていること。

この2つの特徴が、科学に長い時間軸での生命力を与えています。

ところが、この生命力を蝕んでしまう性質を持つものが、権威主義です。
権威主義は、世界の姿を解き明かそうとする科学の精神性において、実はまったく正反対の行為です。

特定の分野において権威ある研究者の学説が、たとえ間違っていたとしても、その体系の中にある自らの不安に耐えられずに、価値が崩壊する恐怖から脱するものを頑なに認めない、という姿勢を生んでしまいます。

ちなみに、この権威主義が蝕んでいくものの正体を、より根源的なところから照らしてくれるのが、ハンナ・アーレントの思想です。

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』は、思考を止めて誰かの答えに同調してしまうことこそが、全体主義への入口になるという構造を丁寧に読み解いています。異なる視点を持つ他者と共に世界を確認し合う「複数性」を手放すとき、人は判断する主体であることをやめてしまいます。権威主義が異論を封じ込めようとする姿勢の奥にも、この複数性の喪失と同じ構造が潜んでいるように思います。

これらは、組織にもそのまま当てはまる話ではないでしょうか。

ひとつの成功体験や、ひとりのキーパーソンの見立てが「不動の真実」のように扱われ始めた組織は、次第に自らを修正する力を失っていきます。

科学的に生きるということは、個々の自由な営為の集合体として、自らの理性でその世界の姿を解き明かそうとする、その精神性を保ち続けることなのだと思います。

組織にとっての可塑性とは、正しさを固定化しないことそのものなのかもしれません。

誤謬という名の物語――偶然に意味を与える人間の営み

科学の外側には、まだ言葉にできていない「薄闇」の領域が広がっています。ここでは、その闇と向き合いながら、人間が偶然に意味を与えてしまう性質そのものについて、考えてみたいと思います。

「闇」を恐れることから生まれた人間の感性

人は昔から、見えないものへの恐怖心を抱えてきました。

それは、生き残る確率を高めるために、人類のDNAに深く刻まれてきた感性だと考えられます。見えないリスク、つまり潜在的な危険をあらかじめ察知できる個体のほうが、恐怖心の根源となっている経験に照らして、生き延びる確率が高かったのだろうと思います。

だからこそ、人はリスクに対して過剰なまでに敏感になり、時に「絶対に安全ですか」という問いを投げかけずにはいられません。しかし、現実の世界に絶対安全というものはほとんど存在しません。ある化合物単独の毒性は調べられていても、混合された際の毒性の組み合わせは、現実的に調べ切れないほど多いからです。

この「調べ切れなさ」こそが、科学の外側に広がる薄闇そのものだと言えます。

偶然の連続に物語を与えることは誤謬か、力か

そして、本書の終盤で語られる内容が、今回いちばん心に残った箇所です。

人間には、偶然に起こったことに対して、安易に意味を与えてしまう性質があります。

それは、人間特有の誤謬なのかもしれません。しかし、その誤謬をまったく拒否する生き方は、あまりにも粗末に扱う行為であるようにも思います。

空を飛びたい、遺伝子は動く。そういった今では科学になった物語がこの世に形をなしていったものではなかったか。

この一節を読んだとき、私たちが生まれてくること自体が、そもそも偶然の産物であるという事実に、あらためて向き合わされました。遺伝子という手持ちのカードは、誰にとっても所与であり、偶然です。それを選んで生まれてきた人は誰もいません。

それでも私たちは、その手持ちのカードをもとに、この世界で生を謳歌する権利を得ています。誤謬と呼ばれるかもしれないその意味づけこそが、実は人を前に進ませる力になっているのだと思います。

手持ちのカードから物語は形をなす――遺伝子は動き、人は空を飛んだ

意味づけという誤謬は、時に現実を動かす力にもなります。ここでは、その力が実際に世界を変えてきた例と、それが経営のパーパスづくりにどうつながるのかを、考えてみたいと思います。

リリエンタール兄弟が体現した「物語の力」

空を飛びたいという願いは、長い間、科学的に不可能だと言われ続けてきました。しかし、リリエンタール兄弟は、飛行を繰り返し実験しながら、人工の丘まで作り上げました。彼らが目指したのは、理論だけではなく、実際に飛ぶことでした。

オットー・リリエンタールは、1896年8月9日、滑空実験中の事故により命を落としました。彼が残した最後の言葉は「犠牲は払われなければならないものだ」というものだったと伝えられています。

飛びたかったことは、科学的に不可能だと言われるうちは、飛んだことにはならない。人は飛んだのだ。

科学的なアプローチが証明する前に、すでに人は飛ぶという物語を追いかけていました。そして、その物語を追いかけた人たちの営みが、後から科学として結実していったのです。

所与の条件から経営のパーパスを紡ぐということ

これは、経営やビジョンづくりにおいても、同じ構造を持っているように思います。組織が置かれている業界の慣習や、限られた経営資源、あるいは創業の経緯といったものは、多くの場合、自分たちで選び取ったものではなく、所与として引き受けざるを得ないものです。

しかし、その所与の条件をどう解釈し、そこにどのような物語を与えるかによって、組織が向かう先はまったく違うものになります。

手持ちのカードそのものを変えることはできなくても、そのカードから何を語り、何を目指すのかという物語は、常につくり直すことができるのだと思います。

パーパスとは、与えられた条件を否定することではなく、その条件のなかに意味を見出し、前へ進むための物語を紡ぐ営みなのかもしれません。誤謬と呼ばれてしまうかもしれないその意味づけの力こそが、組織を動かす原動力になっていくのだと感じています。

パーパスとは、与えられた条件を否定することではなく、その条件のなかに意味を見出し、前へ進むための物語を紡ぐ営みなのかもしれません。誤謬と呼ばれてしまうかもしれないその意味づけの力こそが、組織を動かす原動力になっていくのだと感じています。

ちなみに、この「物語の力」そのものに、慎重な留保を投げかけている1冊があります。

難波優輝『物語化批判の哲学』です。過去の出来事をある目的のもとに再構築し、筋の通った物語として整えてしまうことは、本来の感情や行動の偶然性、曖昧さを覆い隠してしまう危うさをはらんでいます。

物語は、意味を与えてくれる一方で、「わたしはこうあるべきだ」という枠組みに、私たち自身を縛りつけてしまうこともあるのです。

だからこそ大切なのは、物語を安易な答えとして固定してしまわないことなのだと思います。物語に頼りながらも、その物語を絶えず疑い、語り直す余白を残しておくこと。それもまた、手持ちのカードから生を紡いでいくための、もうひとつの姿勢なのかもしれません。

まとめ

  • 科学は「正しさ」ではなく「可塑性」で生き延びる――科学は固定された真理体系ではなく、修正と適応を重ねながら存在を更新し続ける生命的な営みであり、権威主義はその生命力を蝕んでしまいます。
  • 誤謬という名の物語――偶然に意味を与える人間の営み――偶然の連続に意味を与えてしまう性質は誤謬かもしれませんが、それを拒む生き方もまた、人間の営みを粗末に扱うことになります。
  • 手持ちのカードから物語は形をなす――遺伝子という所与のカードから始まる人生と同じように、組織もまた与えられた条件から物語を紡ぐことで、パーパスを形づくっていくことができます。

実践のためのQ&A

本書の内容を踏まえ、読者が直面しやすい「1歩先の疑問」についてまとめました。

科学的に正しいかどうかを追い求めすぎると、何が起こりますか?

正しさを固定化してしまうと、組織や個人が持つ修正していく力そのものを失ってしまいます。科学が生命的に生き延びてきたのは、常に修正を前提としてきたからであり、経営においても同じ姿勢が求められます。

「絶対に安全ですか」という問いに、どう向き合えば良いですか?

絶対安全という状態は、現実的にはほとんど存在しません。だからこそ大切なのは、調べ切れないリスクがあることを前提とした上で、どこまでの不確実性を受け入れるのかを、組織として意思決定していく姿勢です。

所与の条件しかない中で、どうやってパーパスを描けば良いですか?

条件そのものを変えることができなくても、その条件にどんな意味を見出し、どんな物語として語るかは常に選び直すことができます。手持ちのカードから物語を紡ぐ営みこそが、パーパスづくりの出発点になります。

この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。

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