難波優輝『批判的日常美学について』――「ちゃんと」と「徳」の境目を、理解する歓びから考える

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この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール

【経営ビジョンの視点で読み解く本書の核心】「ちゃんとする」ことと「徳」があることは、実はまったく別の営みです。難波優輝が問い直すのは、理解しようとすることそのものに宿る歓びであり、それは体裁を整えることとは異なる場所にあります。
 
1.「ちゃんと」と「徳」の分離:体裁を整えることと、徳のある振る舞いをすることは、根本的に異なる営みです。
2.理解する歓びの発見:生きることを理解しようとする行為そのものが、生まれてきたことへの応答であり、深い喜びの源泉になります。
3.「ふつうの暮らし」への糸口:形式的な美徳から距離を置き、自分の理由で選び直す暮らし方が見えてきます。

  • 「ちゃんとする」ことができている自分と、できていない自分を、いつも採点していないでしょうか?
  • 実は、この「ちゃんとする」という感覚は、道徳的な正しさとはまったく別の、美的な好みに過ぎないのかもしれません。
  • なぜなら、私たちが「ちゃんとしている」と評価するとき、そこには几帳面さや清潔さといった美的な基準が、いつのまにか倫理的な善さにすり替えられているからです。
  • 本書は、美学者・難波優輝さんが、料理、労働、ファッション、清潔感、コミュニケーションといった日常のアイテムを題材に、この「ちゃんと」の正体を丹念に解きほぐしていく一冊です。
  • 本書を通じて見えてくるのは、「ちゃんとする」ことを手放した先にある、理解しようとすることそのものの歓びと、そこにこそ宿る徳のかたちです。

難波優輝さんは、1994年生まれの美学者です。神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程を修了し、専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学にあります。

美学というと、芸術作品を論じる学問という印象を持つ方も多いかもしれません。ですが難波さんの関心は、料理や労働、ファッションといった、誰もが日々こなしている具体的な行為に向けられています。「生活者の世界であり、そこには形而上学や抽象的な思考の入り込む隙間はない」と思われがちな領域にこそ、実は政治的で哲学的な考察の対象があると考えているようです。

他の著作に『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』(講談社現代新書)や、『SFプロトタイピング』(共編著、早川書房)があります。会社員としての顔も持ちながら執筆を続けている点も、生活と思考を切り離さない本書のスタンスと重なって見えます。

「ちゃんとする」という美的規範の正体

「ちゃんとする」ことは、道徳的な正しさそのものではありません。

まずはこの一冊が最初に暴き出す、倫理と美意識の癒着という構造から見ていきたいと思います。

倫理的なものと美的なものは、いつのまにか癒着している

現代は「ちゃんとする時代」だと本書は指摘します。ちゃんと働くこと、ちゃんとした格好をすること。私たちはいつのまにか、ちゃんとすることを当然のこととして受け入れ、それができない自分を責めながら生きています。

しかし、この「ちゃんとする」という言葉が指しているのは、ほんとうに倫理的な正しさなのでしょうか。難波さんは、日常にある美的とされているものの中に、実は倫理的なものが潜んでいることを暴き出そうとしています。

この本では、「ちゃんとする」という言葉に代表されるような、倫理的なものと美的なものの癒着を見つけ出し、それを断ち切っていきます。

つまり、清潔であることや几帳面であることといった「美しさ」の基準が、いつのまにか「正しさ」の基準として扱われてしまっているということです。汚い部屋で暮らすことは、不道徳なことではありません。それにもかかわらず、私たちはどこかでそれを後ろめたく感じてしまいます。

勤勉さの美学が、評価そのものをゆがめる

この癒着は、労働の場面でとりわけ強く働きます。

本書では「勤勉美」という概念が紹介されており、継続性、楽しみを見せつけない態度、地道さ、些細なことへの丁寧さ、時間をかけてやること、じっくりやること、健気さという7つの要素が、勤勉さを構成する美的な選好として整理されています。

興味深いのは、これらの要素が実質的な成果とは独立して評価されがちだという指摘です。効率よく短時間で成果を出す人よりも、苦労して長時間かけて仕事をする人の方が、なぜか「ちゃんとしている」と評価されやすい傾向があります。

これは単なる労働観の話にとどまりません。私たちが日々「ちゃんとしなければ」と感じるとき、その基準の少なくない部分が、こうした美的な選好によってつくられているということを、本書は静かに突きつけてきます。

ここで立ち止まって考えたいのは、「ちゃんとしている」という規範が、そもそも道徳から生まれたものではないという点です。それは感性が社会のなかで型として固定化された姿に過ぎません。だとすれば、この感性そのものを切り捨てる必要はないはずです。むしろ、固定化される手前まで感性を素直に辿り直していくと、そこには何があるのでしょうか。

理解することの歓びと、徳の在り処

その先にあるのが、人が本来的に持っている「分かりたい」という欲求です。「ちゃんと」が感性の固定化された姿だとすれば、この欲求に向かって感性を駆動させ続けることこそが、徳に向かうことなのではないかと思います。

本書のなかで、もっとも心に残ったのが「理解すること」という章です。ここでは「ちゃんと」と「徳」の境目が、はっきりと言葉にされています。

生きることを理解しようとする行為そのものが、美的経験である

私たちは、生まれてくることについて自分の同意を得られる立場にありません。本書はこの前提から出発し、理解しようとすることそのものが、生まれてきたことへの部分的な応答になっているのではないか、と論じています。

木漏れ日のゆらぎに、あるいは蜘蛛の巣に光が反射する様子に、私たちがふと美しさを感じるとき、そこには世界のありようを理解しようとする営みが働いています。理解することそのものが、生きることの美的経験であるという捉え方です。

死んでいったすべての人類の美的経験の成果を受け継いで、私たちは今、世界のありようを理解しようとしています。この理解しようとする欲求は、私たちが生きている以上、簡単には手放せないものとして描かれています。

「ちゃんとした人間であること」と「徳のある人間であること」は違う

そして本書は、ここで決定的な一文を差し出します。

「ちゃんとした人間であること」と「徳のある人間であること」は、違う。

世間一般では、ちゃんとすることが徳のある振る舞いであるかのように思われがちです。ですが、このふたつは、ほんとうによく似ていながら、まったく違うものだと本書は指摘します。

「ちゃんとしている」は、外形的な基準を満たしているかどうかの評価です。時間を守る、身なりを整える、決められた手順を踏む。これらはすべて、外から観察可能な体裁の問題です。

一方で「徳がある」ということは、理解しようとし続ける営みそのものに宿るものだと考えられます。時間に遅れたとしても、相手の状況を理解しようと努めることには、徳が宿りえます。逆に、時間を守っていても、相手を理解しようとする姿勢がまったくなければ、そこに徳は見当たりません。

徳は結果ではなく、理解しようとし続ける過程に宿る

この区別に立つと、私たちが「ちゃんとしなければ」と焦るとき、実は徳とは無関係な、体裁の問題に振り回されているだけかもしれない、という可能性が見えてきます。

理解しようとすることの歓びは、ちゃんとすることの正しさとは、まったく別の場所にあります。この二つを混同しないこと。それが本書のもっとも重要な示唆だと感じました。

「ふつうの暮らし」へ、そして少しだけ経営の話

「ちゃんと」と「徳」を分けて考えられるようになると、日常のさまざまな場面が違って見えてきます。最後に、その先にある景色を見ていきたいと思います。

みせかけの美徳から、距離を取る

本書では、消費行動における「みせかけ美徳消費」という現象も論じられています。ファッションアイテムを通じて美徳を発揮しているように見せることと、実際に美徳を発揮することは、別のことだという指摘です。

みせかけ美徳消費の悪さは、個人の美的価値に応じて消費者の消費行動を促し続けることで利益を得ようとする消費文化の一部だという点にあります。

これは、「ちゃんと」と「徳」の区別と、まったく同じ構造を持っています。

徳があるように見せることと、実際に徳を発揮することのあいだには、越えられない溝があります。

「ちゃんと」を手放した先にあるもの

本書ではさらに、「性格が悪い人」を差別してもよいのかという、清潔感をめぐる議論にも踏み込んでいます。清潔にしていないことを人の意欲不足や規範意識の欠如とみなす態度が、実は特定の人々への差別につながりうるという指摘です。

これらの議論に共通しているのは、「ちゃんとしている」という体裁の基準が、いつのまにか人の価値そのものを測る物差しになってしまっているという構造です。難波さんが最終的に求めているのは、丁寧な暮らしの呪縛から逃れた、いまだ到来していない「ふつうの暮らし」です。

経営やブランディングにも、同じ境目がある

この「ちゃんと」と「徳」の境目は、経営やブランディングの現場にも、そのまま当てはまる視点だと思います。ルールを整え、体裁を整えることと、組織やブランドに徳が宿ることは、別の営みです。

パーパスやビジョンを掲げる際にも、それが体裁としての「ちゃんと」にとどまっていないか、理解しようとし続ける過程そのものが根づいているか、という問いを持ち続けることが大切なのだと感じています。

あたりまえの論点を俯瞰してみるというのも、よき考えるきっかけとなると思います。こちらの投稿「ポジティブな批判思考が“創造性”に効く!?『正しい答えを導くための疑う思考』岡佐紀子」の1冊もぜひご覧ください。

まとめ

  • 「ちゃんとする」という美的規範の正体――倫理的な善さと美的な好みは、いつのまにか癒着しています。
  • 理解することの歓びと、徳の在り処――徳は結果ではなく、理解しようとし続ける過程そのものに宿ります。
  • 「ふつうの暮らし」へ、そして少しだけ経営の話――形式的な体裁を手放した先に、ほんとうの徳と、ふつうの暮らしへの糸口が見えてきます。

実践のためのQ&A

本書の内容を踏まえ、読者が直面しやすい「1歩先の疑問」についてまとめました。

「ちゃんとする」ことをやめると、周囲との関係で不利にならないでしょうか?

本書が求めているのは、ちゃんとすることを完全にやめることではありません。ちゃんとすることと徳があることを混同せず、体裁の基準に振り回されすぎないようにすることが大切です。必要な場面で体裁を整えることと、自分の理由を持ってそれを選ぶこととは、両立できます。

理解しようとする歓びは、どうすれば日常の中で意識できるでしょうか?

効率や成果を急がず、目の前のものごとにゆっくりと関わり直す時間を持つことから始まります。木漏れ日の揺れや、日々のささやかな出来事に目を向け直すだけでも、理解しようとする営みの入り口に立てるはずです。

本書でいう「徳」とは、一言で言うと何になるのでしょうか?

一言で言うなら、感性を「分かりたい」という欲求に向かって駆動させ続けることです。「ちゃんとする」という規範は、その感性が社会のなかで型として固定化されてしまった姿に過ぎません。固定化された型をなぞるのではなく、感性そのものを分かりたいという欲求に向かって働かせ続けている状態こそが、本書における徳のありかだと思います。

この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。

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