『庭の話』宇野常寛――承認のゲームを降りて、制作する経営者になるために

『庭の話』宇野常寛の書影と手描きアイキャッチ

この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール

【経営ビジョンの視点で読み解く本書の核心】現代のプラットフォーム経済は、人と人が承認を奪い合う「相互評価のゲーム」を無限に加速させています。宇野常寛が『庭の話』で示すのは、この承認のゲームから降り、事物(人間以外のもの・自分の思い通りにならない対象)と向き合うことで「制作」する人間を取り戻す道筋です。
 
1.承認のゲームからの離脱:プラットフォームが強いる相互評価の消耗戦を自覚し、そこから距離を取る視点を持つことです。
2.浪費から制作への転換:事物と直接向き合う経験を通じて、消費では満たされない渇望を、意志と行為へ変換することです。
3.責任が宿る場所の再設計:中動態的な受動性から脱し、事物との関係のなかで「責任」を引き受け直す仕組みをつくることです。

  • 経営者として、日々SNSや業界内の「評価」を気にしながら意思決定をしていないでしょうか?
  • 実は、その評価を追いかける行為そのものが、私たちから本当に大切なものを奪っているのかもしれません。
  • なぜなら、プラットフォームが提供する「相互評価のゲーム」は、事物——ここでは人間以外のもの、私たちの思い通りには決してならない対象を指す言葉として使いますが——そのものに触れる経験を疎外し、人を承認への依存へと縛りつけていくからです。
  • 本書は、批評家・宇野常寛による『庭の話』です。プラットフォーム資本主義に支配された現代社会のなかで、人間本来の多様性を回復するための場所として「庭」という概念を提示しています。
  • 本書を通じて、承認のゲームから降り、事物と向き合いながら「制作」する経営者としての生き方について、考えていきたいと思います。
宇野常寛
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宇野常寛さんは、1978年生まれの批評家です。批評誌〈PLANETS〉の編集長を務め、『リトル・ピープルの時代』『遅いインターネット』『日本文化の論点』『母性のディストピア』『砂漠と異人たち』など、数多くの著作を手がけています。立教大学社会学部で兼任講師も務めており、情報社会論から都市論、家族論まで幅広い射程で批評活動を続けている方です。

本書『庭の話』は、文芸誌「群像」に2022年7月号から2024年1月号まで全18回にわたって連載された論考を、単行本化にあたって全面的に加筆・改稿したものです。約2年にわたる思考の蓄積が、プラットフォーム資本主義への根本的な批判と、それに代わる「庭」というモデルの構想へと結晶しています。

哲学者の國分功一郎さんが「『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』への刮目すべき挑戦が現れた」と評しているように、本書は既存の思想的な枠組みを踏まえながら、それを大きく更新しようとする野心的な1冊だと思います。

國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』については、こちら「【パンだけでなく、バラのある生活?】暇と退屈の倫理学|國分功一郎」もぜひご覧ください。

なぜ「イエ」でも「シゼン」でもなく「ニワ」なのか

本書のタイトルにもなっている「庭」という言葉を、私は独自に「イエ」「ニワ」「シゼン」という3つの比較の概念に置き換えて考えると、腑に落ちると感じています。

この対比を補助線にすると、なぜ宇野さんが「庭」にこだわるのかが見えてきます。

イエは支配、シゼンは放棄、ニワはままならなさ

イエとは、人間が完全にコントロールしようとする領域です。

家族、組織、ルール——そこでは思い通りにいかないことがあれば、規則を変え、話し合い、支配を及ぼそうとします。

本書のなかでも、「家族から国家まで、人類はこれまで家のことばかり考えすぎてきたのではないか」という問いかけがなされています。

一方のシゼンは、その対極にあります。

人間がまったく手を出さない、手つかずの野生の領域です。ここでは人間の意志はほとんど意味を持ちません。

ニワは、この2つのあいだにあります。

人間が手を入れる、しかし完全には支配できない場所です。植物は思い通りには育ちませんし、虫や天候もこちらの都合には合わせてくれません。

庭仕事とは、この「ままならなさ」を消し去るのではなく、付き合いながら関わりつづける営みなのだと思います。

最近、私自身とても気になっているのが、この「ままならなさ」という感覚です。

経営においても、組織においても、私たちはつい「イエ」的に、すべてをコントロールしようとしてしまいます。しかし本当に大切なものは、しばしば「ニワ」のように、思い通りにならないところに宿っているのではないでしょうか。

家庭という言葉が示すように、そこには「庭」があるのだ

プラットフォームが奪う「事物との回路」

この「イエ・ニワ・シゼン」という補助線を踏まえると、本書がまず突きつける指摘がより鮮明になります。

結論から言えば、私たちが日常的に使っているSNSプラットフォームは、「ニワ」であるべき場所を「イエ」化——つまり完全に管理・支配できる領域に変えてしまっているのです。

かつて人間は、家の入り口や台所、藁工品の製作をする土間、あるいは古来の作業場としての「庭」に、事物と触れ合うための場所を持っていました。

ところが二十一世紀の現在、人類はこの「庭」をもたずに暮らしています。私たちは社会的な分業とそれにともなう生活のなかで、人間以外の事物に触れるための領域を疎外しつつあるのです。

代わりに私たちが手にしたのは、モノからコトへと欲望の対象が切り替わっていく「相互評価のゲーム」だと思います。

事物そのものに触れることよりも、事物を用いた相互評価のゲームによる承認の交換の快楽を、私たちは容易に淘汰してしまう。

ワークショップに参加して自己表現のできない人がタグづけすることには夢中になっている、あるいはそのようなセルフブランディングを軽蔑しながらもシェアして自意識の高さを感じている——こうした光景は、今日の情報社会の現実そのものだと感じます。

さらに本書が鋭いのは、このプラットフォームの構造そのものを「二層構造」として分析している点です。

私たちユーザーは、投稿という上位のレイヤーにおいてはほぼ完全に自由と多様性を享受しているように感じます。しかし、その投稿を成立させている下位の設計、つまりアーキテクチャそのものについては、まったく関与することも支配することもできません。

ここには「ニワ」のようなままならなさはなく、ただ設計者による一方的な「イエ」的支配があるだけなのだと思います。

これは経営の現場に置き換えても、非常に示唆的な構造だと思います。

私たちは日々、業界内の「評価」や「見られ方」というゲームの盤面の上で努力を重ねていますが、その盤面自体を誰がどうデザインしているのかについては、驚くほど無自覚なままではないでしょうか。

「浪費」から「制作」への移動

哲学者の國分功一郎さんは『暇と退屈の倫理学』のなかで、「消費」と「浪費」を区別しています。

この区別が、宇野さんの「庭」論の起点・基盤になっていると思います。

消費は満たされず、浪費は満たされる

消費とは、事物そのものではなく、事物に付与された観念や記号を対象とする行為です。

ブランドという記号を消費するとき、私たちはその記号に終わりのない意味を追い求めてしまいます。だからこそ消費には限界がなく、必要のないもの、使い切れないものを、次から次へと買い求めることになるのだと思います。

これに対して浪費とは、事物そのものを受け止める行為です。

ものを浪費するとき、人はある限界にまで達すると、満足し、そこにとどまることができます。この違いは決定的だと感じます。

消費社会が私たちに強いているのは、終わりのない記号の追求であり、満足を得ることができない構造そのものなのだと思います。

事物と向き合うと、意志が生まれる

ここで本書がさらに深いのは、浪費もまた失敗しうるという指摘です。

人間の精神は、ある事物を強く追求することによって、その理想形を内部に生じさせてしまいます。事物のなかの自分をより強く動かす要素を全面化したものや、自己のなかでより強い快楽を得られるようにアレンジしたものを、求めるようになっていく。

この対象への欲望が強すぎた結果として、現実に存在する事物とその理想形との落差に、人は傷つきはじめるのです。

しかし私は、この「落差」にこそ経営における創造の起点があると思います。

事物に直接向き合うと、そこには意志が生まれます。それは、あるべき姿とのギャップという形で表現され、その力が「制作」になるのだと思います。

パーパス経営の実践においても、まさにこの構造が働いているのではないでしょうか。理想と現実のギャップに絶望して立ち止まるのではなく、そのギャップを制作の動機に変換できるかどうかが、組織のビジョンを実装できるかどうかの分かれ目になるのだと感じます。

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中動態を一時停止する庭

本書後半で展開される「中動態」という考え方も、経営における責任のあり方を考えるうえで重要な視点を与えてくれます。少し難しく聞こえる言葉なので、ここは丁寧に噛み砕いてみたいと思います。

「する」でも「される」でもない、真ん中の状態

「中動態」とは、簡単に言うと、「自分からやった」(能動)でも「他人にやられた」(受動)でもない、その真ん中にある状態のことです。

たとえば、「恋に落ちる」という日本語を考えてみてください。

恋をするのは、自分の意志で「する」ことでしょうか。それとも、誰かに「させられる」ことでしょうか。どちらでもない、という感覚が近いと思います。

気づいたら、そうなっていた。自分から望んだわけでもないし、無理やりやらされたわけでもない。これが中動態的な状態です。

「眠くなる」「笑いが止まらなくなる」なども同じで、私たちの日常は、実は能動と受動だけでは説明しきれない出来事に満ちています。

哲学者の國分功一郎さんは『中動態の世界』のなかで、この「する」と「される」という2択の言葉づかいこそが、私たちの「意志」や「責任」という考え方を、実はとても不自由なものにしていると指摘しています。

何かが起きたとき、「誰かが意志をもってやった」ことにしないと、私たちは責任の所在を決められない仕組みになっているのです。しかし現実には、多くの出来事は中動態的、つまり「なんとなくそうなってしまった」ものなのだと思います。

「傷」を、庭でゆっくり引き受け直す

本書はここで、病院でのある事例を紹介しています。

水を飲むことをやめられない患者さんに対して、無理にやめさせようとするのではなく、同じ病棟の仲間と一緒に、味わいながら水を飲む時間をつくる。すると、症状が自然とやわらいでいったというのです。

これは、「やめなさい」と一方的に命令する(能動と受動の関係を押しつける)のではなく、事物(この場合は水)と、そして人と、ゆっくり向き合い直す時間そのものが、人を回復させるということだと思います。

この考え方を経営に置き換えると、組織における失敗や痛みへの向き合い方が見えてきます。

誰か一人に「あなたの意志でやったことだから、あなたの責任だ」と押しつけて終わらせるのは、いわば「イエ」的な支配のやり方です。

そうではなく、事物や仲間とじっくり向き合いながら、時間をかけて「なぜそうなったのか」を引き受け直していく——これはまさに「ニワ」的な回復のプロセスだと思います。

まとめ

  • なぜ「イエ」でも「シゼン」でもなく「ニワ」なのか――庭とは、人間が関与しながらも支配できない「ままならなさ」を引き受ける場所です。
  • 「浪費」から「制作」への移動――消費は終わりなき記号の追求ですが、浪費は事物を受け止め満足することができます。そして理想と現実のギャップこそが、制作を生む意志の源泉になります。
  • 中動態を一時停止する庭――「する」でも「される」でもない出来事を、事物とじっくり向き合いながら時間をかけて引き受け直すことで、責任と回復が生まれます。

実践のためのQ&A

本書の内容を踏まえ、読者が直面しやすい「1歩先の疑問」についてまとめました。

「事物」という言葉が、日常ではあまり使わないのですが、どう捉えればいいでしょうか?

難しく考えず、「人間の思い通りにはならない、ものそのもの」くらいに捉えていただければと思います。道具や自然物はもちろん、仕事における商品やサービス、日々向き合う課題なども、広い意味では「事物」だと言えます。

プラットフォーム的な評価から距離を取ると、ビジネス機会を失うのではないでしょうか?

評価そのものを否定する必要はないと思います。重要なのは、評価を追いかけることを目的化しないことです。事物、つまり顧客の実際の課題や自社の提供価値に向き合う軸を持ったうえで、評価はその結果としてついてくるものだと捉え直すことをおすすめします。

組織の「傷」に、経営者としてどう向き合えばよいでしょうか?

失敗や痛みをすぐに処理・解決しようとするのではなく、まず組織の内部でその出来事を共有し、承認し合うプロセスを大切にしてください。そのうえで、そこから生まれる意志やギャップを、次の制作へとつなげていく視点を持つことをおすすめします。

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この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。

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