この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
【経営ビジョンの視点で読み解く本書の核心】「あたりまえ」を疑う力は、遠近を往復する視線の運動から生まれます。大川内直子氏が説く文化人類学の知見は、経営者が自社の「常識」を組織の外から見つめ直すための実践知です。
1.遠近の往復運動:異質な論理を近くに引き寄せ、見慣れた自社の姿を遠くから眺め直す視座を養います。
2.わからなさへの耐性:即答を急がず、対象と共に在り続ける時間の厚みが、深い理解への回路になります。
3.思考の枠を外す実践知:クラの儀礼や経済人類学の知見を通じて、自社の硬直した制度や価値観を相対化します。
- なぜ、世界のビジネスエリートたちは、こぞって文化人類学を学び始めているのでしょうか?
- 実は、グーグルやインテル、マイクロソフトといった企業は、早くから社内に文化人類学者を雇用し、戦略立案にその知見を取り入れてきました。
- なぜなら、文化人類学が磨いてきたのは、単なる異文化研究の手法ではなく、「遠くのものを近くに引き寄せ、近くのものを遠くから見つめ直す」という、思考そのものを組み替える技術だからです。
- 本書は、経済学でも経営学でも心理学でもなく、文化人類学こそが今のビジネスパーソンに必要な教養だという立場から、クラの儀礼、経済人類学の互酬・再分配・交換、そしてIDEOのデザイン思考まで、幅広い事例を通じてこの技術を解き明かしていきます。
- 本書を通じて見えてくるのは、答えをすぐに求めない姿勢そのものが、実は最も実践的な経営の構えだという逆説です。
大川内直子さんは、文化人類学者であり、株式会社アイデアファンドの代表取締役です。東京大学教養学部を卒業後、同大学院総合文化研究科修士課程を修了し、専門は文化人類学と科学技術社会論です。大学院在籍中から文化人類学のビジネス応用に関心を持ち、海外リサーチ案件に携わってきました。
金融機関でコーポレート・ファイナンスの実務を経験したのち、2018年に文化人類学に基づく専門サービスを提供する日本初の組織として、株式会社アイデアファンドを設立しています。
学問の世界とビジネスの現場を両方知っているからこそ、本書は専門的な内容を実践知として語れる強度を持っています。国際大学GLOCOM主任研究員なども務めており、著書に『アイデア資本主義 文化人類学者が読み解く資本主義のフロンティア』(実業之日本社)があります。
遠くのものを異質なまま切り捨てず、近くに引き寄せる
異質に見える他者の論理を切り捨てず、内側から理解しようとする姿勢こそが、経営における最初のリベラルアーツです。一見理解しがたい慣習の奥には、必ずその土地固有の論理があります。
クラの儀礼が示す、参与観察という方法
南太平洋のトロブリアンド諸島には、「クラ」と呼ばれる儀礼があります。貝殻でつくられた首飾りや腕輪を、島々のあいだで命がけのカヌーを操りながら循環させるという慣習です。外部の視点から見れば、装飾品のやり取りのために生命を危険にさらす行為は、理解しがたいものに映ります。
この慣習を詳細に記述したのが、イギリスの人類学者ブロニスワフ・マリノフスキーです。彼は現地に長期滞在し、人々と同じ屋根の下で暮らし、同じ食事を取りながら、その内部の論理を記述していきました。
この「参与観察」という手法を通じて明らかになったのは、クラが単なる物品の交換ではなく、威信や名誉を組織し、島々の関係を結び直す精緻な社会的装置として機能しているという事実でした。
理解不能に見えていた行為は、文脈の中に置かれた瞬間、意味を帯びる。「遠く」にあったものが、「近く」に引き寄せられる。
組織の摩擦も、同じ論理で読み解ける
この転換は、組織の内側にもそのまま応用できるはずです。社内で意思疎通が難しい相手や部署、あるいは海外進出先で直面する商習慣もまた、同じ射程に収まります。
私自身の伴走スタイルのコンサルティングでも、クライアント企業の一見非合理に見える慣習や部門間の摩擦を、いきなり正そうとするのではなく、まずその内部の論理を丹念に聞き取ることから始めています。
異質さを切り捨てるのではなく、その背後にある固有の意味を読み取る姿勢が、組織変革の出発点になるはずです。
近くにありすぎて見えないものを、遠くから眺め直す
自社の「あたりまえ」に気づくためには、あえてその内側から一歩離れる視座が必要です。近くにありすぎるものほど、かえって見えなくなってしまいます。
水の中の魚は、水の存在に気づかない
ある文化人類学者の言葉に、秀逸な喩えがあります。
水の中にいる魚は、水の存在に気づかないというものです。
魚は生まれてから死ぬまで、ずっと水の中で暮らしています。水の外を知らないからこそ、自分が水という特殊な環境の中にいることに、まったく気づけません。
同じことが、私たちの「文化」や「社会」にも言えます。
資本主義という経済システムの中に浸かりきっている私たちは、時間を分刻みで管理し、労働と余暇を明確に分け、お金を媒介にしてあらゆるものを交換できる状態を「普通」だと思い込んでいます。
水は生まれてから死ぬまで、ずっと水の中で暮らしています。水の外を知らないからこそ、自分が水という特殊な環境の中にいることに、まったく気づけません。
互酬・再分配・交換――3つの経済原理を生きている
経済人類学者カール・ポラニーは、社会における経済活動を「互酬」「再分配」「交換」という3つのパターンで整理しました。互酬は贈与関係や相互扶助のことで、友人へのプレゼントやお歳暮・お中元、近所同士の助け合いがこれにあたります。
再分配は、一度中央に集められた富が、メンバーに配り直される仕組みです。国家による税金と公共サービス、会社によるボーナス配分がこれにあたります。
そして交換が、市場での売買、つまり現代の資本主義社会で圧倒的な比重を占める「取引」です。
現代の私たちは、資本主義に生きながらも、「互酬」的な要素を色濃く残した関係の中にいます。
友人にプレゼントを贈るとき、代金は請求しません。上司が部下にご飯を奢るとき、その場で精算はしません。私たちは、お金を払って何かを買う形で「交換」がすべて成り立っていると思い込みがちですが、実際には複数の経済原理のあいだを、無意識に行き来しているのです。
IDEOのデザイン思考も、同じ発想から生まれている
IDEOが実践してきたデザイン思考の核にあるのも、この「近くのものを遠くから見る」という発想です。
「あなたは何が欲しいですか?」というアンケートで人間の本当のニーズを尋ねるのではなく、人々の行動を丹念に観察する「まず人間ありき」のアプローチによって、消費者自身も言語化できていない無意識の領域に接近しようとします。
自社の強みや製品の本当の価値、あるいは組織に内在する硬直した制度も、いったん「遠く」に置いて眺め直したときに、初めて対象として輪郭を結ぶはずです。
ビジョンや戦略の再設計に必要なのは、まさにこの視線の反転だと思います。
わからなさに、丁寧に向き合う
答えをすぐに出そうとしない姿勢こそが、深い理解に至るための最も確実な近道です。効率や即答が優先される経営の現場だからこそ、この態度には意味があります。
「わかりやすさ」が急かす社会の中で
現代社会は、あまりにも「わかりやすさ」を求めすぎています。
すべてを数値化し、KPIで管理し、答えがすぐに出ることを当然のように期待してしまいます。
しかし、人間を深く理解しようとフィールドワークを行うとき、「わからない」という状態に耐えなければならない時間が、少なからずあります。
わからないまま過ごした時間があるからこそ、後になって「あのときのあれは、こういうことだったのかもしれない」というインサイトが生まれてくるのです。
従来のマーケティングリサーチでは、アンケートやデータ分析が中心でした。「あなたは何が欲しいですか?」と消費者に尋ねる、このアプローチには確かに一定の価値がありますが、限界もあります。
ネガティブ・ケイパビリティという構え
このように、答えを急がず「わからなさ」を抱え続ける態度は、心理学で言うネガティブ・ケイパビリティという概念とも重なります。この態度は一見遠回りに映るかもしれません。
しかし、解像度を上げて対象に参与してみると、案外わからないことで世の中は満ちていることに気づかされます。
そのわからなさを、性急に単純化して片づけてしまうのではなく、丁寧に向き合い続けること自体が、実は最も実践的な経営の構えなのだと思います。
ビジョンも、わからなさの中からしか立ち上がらない
これは、パーパスやビジョンを掲げる際にも通じる態度です。
バックキャスティングで未来像を描くとき、私たちはつい答えを急ぎ、わかりやすい言葉に落とし込みたくなります。しかし本当に意味のあるビジョンは、対象と共に在り続ける時間の中からしか立ち上がってこないはずです。
自分の「あたりまえ」を疑い、相手の「あたりまえ」に寄り添う。
目の前の人や現象をじっくり見つめてみる。そこから、これまで見えなかった世界が広がっていくのだと思います。
文化人類学は、視点の多様さを体感するヒントを提供してくれると思いました。その観点からさらに、こちらの1冊「【ものごとを考えるための人類学的ヒントとは?】文化人類学の思考法|松村圭一郎,中川理,石井美保」もお手に取ってみてください。おすすめです。

まとめ
- 遠くのものを近くにする――クラの儀礼とマリノフスキーの参与観察が示すのは、異質な論理を切り捨てず内側から理解する姿勢が、組織の摩擦を読み解く出発点になるということです。
- 近くのものを遠くにする――水の中の魚の比喩とカール・ポラニーの経済人類学が示すのは、自社の「あたりまえ」を外から眺め直すことで初めて、その輪郭が見えてくるということです。
- わからなさに丁寧に向き合う――KPIで測れない時間に耐える態度こそが、答えを急がない経営の構えであり、深い理解と本当に意味のあるビジョンへの回路になるということです。
実践のためのQ&A
本書の内容を踏まえ、読者が直面しやすい「1歩先の疑問」についてまとめました。
この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。
