この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
【経営ビジョンの視点で読み解く本書の核心】食べることにまつわる日常の断片を丁寧に観察し、言葉にしていく営み。その積み重ねが、企画力・判断力・表現力の土台になります。
1.「焦げちゃった」と命名する力:うまくいかない出来事に自分なりの言葉を与えることで、失敗を次の行動に転換できます
2.「ぶどうあじあじ」という解像度:微細な差異を言語化する習慣が、ブランドや企画における本質的な差別化を生みます
3.「ん めとごだげ、け」の選択眼:おいしいところだけを選び取る祖母の哲学が、経営における「捨てる勇気」と重なります
- 「観察する力」は、どこから育つのでしょうか?
- 実は、それは特別な訓練から生まれるものではないかもしれません。
- なぜなら、日常の食卓こそが、五感と感情と思考が交差する最も身近な実験場だからです。
- 本書は、作家・くどうれいんによる2冊目の食エッセイ集です。
- 本書を通じて、日々の食事を丁寧に言葉にしていく習慣が、いかに豊かな観察眼と判断力を育てるかを体感できます。
くどうれいんは1994年生まれ、岩手・盛岡市出身の作家です。
デビュー作『わたしを空腹にしないほうがいい』(BOOKNERD)が話題を呼び、小説・エッセイ・歌集・絵本・児童書と多彩なジャンルで活躍しています。
2021年には小説『氷柱の声』が芥川賞の候補作となりました。
本書はデビュー作から5年ぶりとなる食エッセイ集で、日経新聞「プロムナード」連載(2022年7月〜12月)に書き下ろしを加えた全41編が収録されています。
累計2万5千部を超えるロングセラーとなっており、食と暮らしと言葉をめぐる独自の感性が多くの読者に支持されています。
「焦げちゃった」と命名する力
失敗をどう呼ぶかが、その後の自分を決める。 言葉のトーンひとつで、日常の空気はまったく変わります。 くどうれいんのある習慣から、そのことを考えます。
失敗に、余白を作る言葉
うまくいかない日が続くとき、人はどう立て直すのでしょうか。 くどうれいんが選ぶ方法は、ユニークです。 Twitter(X)などで「焦げちゃった」と検索するのです。
すると、日本中で今この瞬間、夕食を焦がしている人たちの投稿が流れてくる。 そして、その投稿には決まって「でもおいしかった」「でもおもしろいからOK」という前向きな言葉が添えられているといいます。
「焦げちゃった」という語尾に表れる、てへへという空気にうっとりする。てへへ、と暮らしたい。わたしも、どれだけ焦がしても「焦げちゃった」と笑える人間でありたい。
「焦げた」ではなく「焦げちゃった」。 この語尾の違いは、単なるトーンの問題ではないと思います。
「焦げた」は事実の記述です。 「焦げちゃった」は、失敗を引き受けながらも、そこに少しの余白を作る言葉です。 自分を責める前に、ちいさく笑う隙間をつくる言葉、と言ってもいいかもしれません。
見知らぬ誰かの「てへへ」に救われる
くどうれいんはこのエッセイの末尾で「きょうも日本のどこかでだれかが夕食を焦がしている」と書いています。 見知らぬ誰かの「焦げちゃった」に救われる、という感覚。
これは、インターネットが本来持っていたはずの温かさだと思います。 誰かの失敗が、誰かの心をほぐす。 情報でも知識でもなく、「てへへ」という空気が伝染していく。
わたしたちは日々、うまくいかないことと一緒に生きています。 焦がした料理、言い損ねた言葉、間に合わなかった締め切り。 それらをどう抱えるか。「焦げちゃった」と笑えるかどうかは、生き方の問題です。
自分の言葉で、自分を扱う
本書を読んで気づくのは、くどうれいんが自分の感情や状態を、いつも自分の言葉でつかまえているということです。
不調をそのまま放置せず、でも大げさに嘆くわけでもなく。 「焦げちゃった」という語尾でちょうどよく包んで、前へ進む。
自分をどんな言葉で扱うか。 それが積み重なって、その人の日常の色になっていくのだと思います。 「焦げちゃった」と笑えることは、小さいようで、とても豊かなことです。
「ぶどうあじあじ」という解像度
「おいしい」だけでは、何も伝わらない。 自分だけの言葉で感覚をつかまえようとするとき、世界の見え方が変わります。 「ぶどうあじあじ」という造語から、そのことを考えます。
「ぶどうの味」と「ぶどう味の味」は違う
飴を口に入れたとき、「ぶどうあじあじだ」とつぶやく。
「ぶどうの味じゃなくて、ぶどう味の味がするの、わかる?」
「ぶどうの味」と「ぶどう味の味」は、客観的には同じものかもしれません。 でも、体験している本人にとっては、まったく別のものです。
ぶどうの味は、自然の果実が持つ複雑さです。 ぶどう味の味は、人工甘味料が生む「期待された甘さ」です。 そして「やっぱりぶどう!」と喜ぶあの感覚は、期待と一致したときの小さな幸福です。
くどうれいんはこの違いを、目くじら立てて論じるのではなく、ただ愛でています。 「あじあじ」たちのことも、それはそれでとても好き、と。 そのフラットな視線が、この本の読み心地をつくっています。
造語が生まれる瞬間
「あじあじ」という言葉は、辞書にはありません。 でも、この言葉を読んだとき、誰もがあの感覚を思い出すはずです。 駄菓子屋のいちご味、メロン味、ぶどう味。 本物ではないけれど、それはそれとして愛すべき「あじあじ」の世界。
既存の言葉では届かない感覚を、新しい言葉でつかまえようとすること。 それは、感じることへの真剣さだと思います。
「おいしかった」で済ませるのではなく、どんなおいしさだったかを問い続ける。 その習慣が、くどうれいんの文章のあの密度をつくっているのでしょう。
小さな喜びを、ちゃんと受け取る
わたしが求めているうれしさは、きらっとひかる薄紫の「やっぱりぶどう!」くらいがちょうどいい。
この一文が好きです。 派手な感動でなくていい。大きな幸福でなくていい。 「やっぱりぶどう!」と小さく喜べる感覚を、ちゃんと持ち続けること。
日常の中には、「やっぱりぶどう!」がたくさん転がっています。 それに気づけるかどうかは、観察の解像度の問題です。 くどうれいんは、その解像度を食の言葉で丁寧に育てています。 本書を読んでいると、自分の日常にも「あじあじ」を探したくなります。
「ん めとごだげ、け」の選択眼
すべてを大切にしようとすることが、かえって何も大切にできなくなることがある。 祖母の畑仕事から受け取った哲学は、どう生きるかという問いと重なります。
おいしいところだけ、食べなさい
岩手の方言で「ん めとごだげ、け」。 標準語に訳せば「おいしいところだけ、食べなさい」。
祖母が畑で夏野菜を収穫するとき、形のいいものだけを取り、虫食いや不格好なものは迷いなく地面に捨てていた。 その光景を描いたエッセイです。
食べ物を粗末にしないと習った学校の教えと、生産者である祖父母の「おいしいものだけ食べればいい」という実践が、相反するように見えて、どこかで繋がっている気もする。 くどうれいんはその矛盾を抱えながら、「いずれすべて朽ちる。そうであればなるべくおいしいところを選んだほうがよい」という祖母の哲学を静かに受け取っています。
迷いのなさの正体
虫食いを地面に捨てる祖母の迷いのなさ。 これは冷たさではなく、長年の暮らしから育った判断眼だと思います。
何がおいしいか、何がそうでないかを、身体でわかっている人の動作。 頭で考えるよりも先に、手が動く。 その迷いのなさには、清々しさがあります。
わたしたちは日々、たくさんのことを抱えて生きています。 手放せないもの、手放すべきもの、その境界はいつも曖昧です。 「ん めとごだげ、け」という言葉は、その問いへのひとつの答えのように響きます。 おいしいところを知っているなら、そこだけ食べればいい。
春は、手元からはじまる
本書の最後に近いエッセイ「ふきのとうの天ぷら」で、くどうれいんはこう書いています。
春が、四季は、いつでもわたしの手元からはじまる。
揚げたてのふきのとうを菜箸でつまむ、その瞬間。 その小さな動作から、季節がはじまる、という感覚。
「ん めとごだげ、け」の哲学と、この一文は繋がっていると思います。 おいしいところを選んで、丁寧に食べる。 その行為が、自分の時間の主導権を取り戻すことになる。
日常をどう感じるかは、日常をどう扱うかで変わります。 何を選んで、何を手放すか。 くどうれいんの食の言葉は、そういう静かで根本的な問いを、そっと差し出してくれます。
まとめ
- 「焦げちゃった」と命名する力――失敗に柔らかい言葉を与えることは、自分を責める前にちいさく笑う隙間をつくることです。その語尾ひとつが、日常の色を変えます。
- 「ぶどうあじあじ」という解像度――「やっぱりぶどう!」と小さく喜べる感覚を持ち続けること。日常に転がる小さな幸福を受け取るには、自分だけの言葉で感覚をつかまえる習慣が必要です。
- 「ん めとごだげ、け」の選択眼――おいしいところを知っているなら、そこだけ食べればいい。何を選んで何を手放すかという問いは、食卓から人生全体へとじわっと広がっていきます。
実践のためのQ&A
本書の内容を踏まえ、読者が直面しやすい「1歩先の疑問」についてまとめました。
この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。
