この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
【経営ビジョンの視点で読み解く本書の核心】思春期を経て人は欲望とルールの折り合いを学びます。しかし欲望に蓋をするだけでは、人はニヒリズムの中で孤立します。竹田青嗣が示す「欲望の社会化」の先には、自分のどうしようもなさを社会の中で成就させるという、パーパスの深層があります。
1.欲望の社会化という成熟:我慢ではなく、欲望を他者・社会と両立可能な形へ編み直すことが成熟の本質です
2.蓋をするとニヒリズムが生まれる:欲望を抑圧すると意味の回路が切れ、孤立と無気力が生まれます。その構造を知ることが出発点です
3.パーパスとは調整運動である:自分・他者・社会の接続を絶え間なく更新し続けることが、パーパスの本質的な姿です
- 「自分は何のためにこの仕事をしているのか」——そう問い直したくなる瞬間が、誰にでもあると思います。
- 順調に見えるのに、どこか空虚な感じがする。成果は出ているのに、駆動感が薄い。あるいは逆に、理屈では説明できないけれど、これだけはやらずにいられないという感覚がある。
- 竹田青嗣の『欲望論』第2巻の後半は、そういった問いの根っこに触れます。人間の欲望は思春期を経てどのように成熟し、社会との折り合いをつけていくのか。そしてその先に、パーパスと呼びうるものがどのように立ち上がるのか。
- 哲学の言葉で書かれていますが、ここで描かれているのは、私たちが日々経験している「自分の動機と社会との摩擦」そのものです。欲望を抑えるだけでは人は枯れていく。かといって欲望のままに動けば社会との接続が切れる。その間でどう生きるか——この問いに、竹田は正面から向き合います。
- 本書を通じて、「パーパス」という言葉の奥にある、人間的な動機の構造を考えていただけれたら嬉しいです。
竹田青嗣(たけだ・せいじ)は、1947年生まれの哲学者・文芸批評家です。早稲田大学国際教養学部名誉教授を務め、ニーチェおよびフッサール現象学の研究者として知られています。
哲学を「専門家のもの」ではなく、人間の生の現実に根ざした思想として捉え直す姿勢が一貫しており、『ニーチェ入門』『現象学入門』など平易な入門書も多数著しています。『欲望論』はその思索の集大成とも言える大著で、欲望・意味・価値という概念を哲学史全体を舞台に問い直し、現代思想の袋小路に突破口を開こうとしています。
思春期は欲望が社会的視線と衝突する最初の舞台
母子関係の中で芽生えた欲望は、やがて家族という小さな円を超え、より広い社会へと出ていきます。その最初の大きな舞台が、思春期です。
竹田はここで「自己欲望」という概念を導入します。幼少期までは、欲望の中心は身体エロスと母子の関係感情にありました。しかし潜伏期から思春期にかけて、欲望の対象は明確に自己自身へと向かいはじめます。
潜伏期から思春期にかけて、人間の欲望の対象(「ありうる」)中心性は明確に自己自身へと向けられ、すなわち「自己欲望」を形づくる。それは思春期において「自己ロマン」の形成をうながし、青年期ではしばしば強固な「自己理想」という形をとる。
「自己ロマン」とは、自分を世界の中心的主人公とみなす、あの思春期特有の感覚のことです。自分には特別な可能性がある、自分だけの内的世界がある——その確信が、この時期の人間を強く動かします。
そしてこの自己欲望が、失敗の反復によってゆるやかに挫折を経験するとき、何が起きるのか。
自己を世界の中心的主人公とみなす思春期的「自己欲望」が、失敗の反復によって(ゆるやかな、あるいは決定的な)挫折を蒙らなければ、「自己ロマン化」は自己形成の本質的な一プロセスとなり「自己理想」の形成へといたる。
つまり思春期の自己ロマンは、否定されるべきものではなく、成熟のための通過点です。失敗と挫折の経験を経て、それが「自己理想」という、より現実と接続した自分像へと育っていく。
重要なのは、この過程で「自由への欲望」が芽生えるという点です。社会のルールや他者の期待に縛られず、自分だけの理想へと向かいたいという欲求。これは単なるわがままではなく、人間の欲望が成熟するために不可欠な契機です。
自己ロマン化は自分の理想とする世界への強い憧れであり、この内的な理想(「ありうる」)への憧れは、一般的に「自由」への欲望と呼ばれてよいものである。
経営やキャリアの文脈に引き寄せると、この思春期の構造は成人以後も繰り返されます。
新しい仕事に就いたとき、新しいプロジェクトを立ち上げたとき、人は再び「自己ロマン」の段階から始まります。その理想が現実との摩擦にさらされ、挫折を経験し、それでもなお何かに向かっていくとき——そこに「自己理想」が生まれ、本当の意味での動機が育まれていきます。
思春期は一度きりの出来事ではなく、人が新しい世界に出ていくたびに繰り返される構造です。だからこそ竹田はここに、欲望の成熟という問いの核心を置いています。
欲望に蓋をするとニヒリズムが生まれる
思春期以降、多くの人が直面するのは「欲望とルールの衝突」です。社会に出れば、自己欲望をそのままぶつけることはできません。待つことを覚え、他者の欲望を考え、折り合いをつけることが求められます。
しかしここで問題が生じます。欲望との向き合い方を誤ると、欲望は地下に潜る。表面上は「大人」に見えながら、内側では駆動感を失っていく。竹田はこの状態を、自己欲望の相克として描きます。
「かく行為せよ」という定言命法が自然な「われ欲す」と相克する理由は複合的であり、この相克が持続的で解決不可能な身体的体制を作り上げると、恒常的な「不安身体」の形成として、すなわち神経症的症状として現出する。
「かく行為せよ」とは、社会や組織が求める規範のことです。
「われ欲す」とは、自分の内側から湧く欲望のことです。
この2つが長期にわたって相克し続けると、身体そのものが「不安」の器になっていく。これは抽象的な話ではなく、働く人が経験する消耗や無気力の、哲学的な記述です。
では欲望を押さえ込むことが成熟なのか。竹田の答えは明確にノーです。
欲望に蓋をすることは、意味の生成回路を閉じることです。第1巻で見たように、人間にとって意味は欲望によって生成されます。その欲望を否定すれば、世界から意味が失われていく。残るのは、表面的な適応と、内側のニヒリズムです。
人間は、本質的に、かつ発生的な構造において「実存世界」と「客観的世界」という二重の世界性の中で生きる。
ここで重要なのは、「実存世界」が失われると「客観世界」への確信も揺らぐという指摘です。
自分の欲望や感受が根拠を失うとき、他者と共有している世界への現実感もまた薄れていく。
これがニヒリズムの構造です。「何をやっても意味がない」「どうせ変わらない」という感覚は、意味の生成回路が切れたサインです。
組織の現場でこの状態は珍しくありません。ルールへの適応は完璧だが、自分から何かを始めようとしない。成果は出ているが、目に生気がない。そういうメンバーを前にしたとき、「もっとやる気を出せ」と言っても何も変わりません。
必要なのは、その人の欲望の回路に触れ直すことです。何に動かされ、何に意味を感じていたか——その問いへの丁寧な帰還が、ニヒリズムからの出口になります。
欲望を抑圧するのでも、欲望のままに暴走するのでもなく、欲望を社会との関係の中で「生きられる形」へ編み直すこと。これが竹田の言う「欲望の社会化」の本質です。
パーパスとは絶え間ない調整運動である
欲望の社会化を経た先に、何があるのか。竹田が示す方向は、欲望を「否定」でも「肯定」でもなく、「引き受ける」ことです。
自分の「どうしようもなさ」——認められたかった、理不尽が嫌だった、孤独だった、正解のないものに惹かれた——そういう原初的な動機に正直に向き合い、それを社会の中で成就させる回路を見つけること。これがパーパスの深層にあるものだと思います。
竹田は「自己価値欲望」という概念でこれを捉えます。自分の存在が価値あるものであるという確信を求める欲望。これは承認欲求と似ていますが、より深い層にあります。他者に認められたいというより、自分が意味ある存在として世界に参加したいという欲望です。
この欲望は、孤立した内側からは満たされません。他者と社会との接続の中ではじめて、その充足が可能になります。だからこそ竹田は、認識の根本を「欲望‐身体にとっての対象の意味‐価値的秩序」として捉えます。
認識は、始元的には、主体にとっての対象の欲望相関的な意味‐価値的秩序の了解、その到来と告知である。
噛み砕けば、人は世界を「客観的な事実」として見ているのではなく、「自分の欲望にとってどんな意味と価値を持つか」として見ているということです。だから同じ出来事でも、欲望の文脈が違えば、まったく違う意味として経験されます。
ここからパーパスの本質が見えてきます。
パーパスとは、「きれいな理念を掲げること」ではありません。
自分の欲望の文脈と、他者・社会の意味の秩序を、繰り返し接続し直す運動のことです。
自分が変われば、欲望の文脈が変わります。社会が変われば、意味の秩序が変わります。関係が変われば、接続の仕方が変わります。だからパーパスは、一度決めたら終わりの答えではなく、絶え間なく更新される運動体です。
欲望に蓋をすると、人はニヒリズムの中で孤立します。
本当に大切なのは、自分・他者・社会の接続を、絶え間なく調整し続けることです。
その調整運動そのものが、パーパスであり、生きることの意味でもある——竹田の『欲望論』は、そこまで射程を持った思想です。
ブランドも共創も、突き詰めればこの調整運動の問題です。
企業の欲望と社会の意味秩序を接続し、更新し続けること。個人の欲望と組織のパーパスを接続し、育て続けること。その運動が止まったとき、ブランドは空洞化し、共創はきれいごとになります。
竹田青嗣が千ページをかけて辿り着いたのは、「人間は意味を持つ存在ではなく、意味を接続し続ける存在だ」というインサイトです。難解な哲学書ですが、その核心はとてもシンプルで、そして深く実践的です。
今回の内容を、できるだけシンプルに整理してみます。
第2巻の後半で竹田が言っていることは、3つに絞れます。
まず、思春期は欲望が社会的視線と初めて正面からぶつかる舞台です。
自己ロマンの挫折を経て自己理想が育まれる
——この過程は、社会人になっても新しい世界に踏み出すたびに繰り返されます。
次に、欲望に蓋をするとニヒリズムが生まれます。
意味は欲望によって生成されるから、欲望を否定すると世界から意味が失われる。
「どうせ変わらない」という感覚は、意味の回路が切れたサインです。
そしてパーパスとは、欲望を社会の中で成就させようとする調整運動そのものです。
一度決めたら終わりの答えではなく、自分・他者・社会の接続を絶え間なく更新し続けることがパーパスの本質です。
まとめ
- 思春期は欲望が社会的視線と衝突する最初の舞台——自己ロマンの挫折を経て自己理想が育まれる構造は、人が新しい世界に踏み出すたびに繰り返されます。欲望の成熟とは、その繰り返しの中で欲望を社会と接続可能な形へ編み直していくことです。
- 欲望に蓋をするとニヒリズムが生まれる——意味は欲望によって生成されるから、欲望を否定すると世界から意味が失われます。表面的な適応の裏に潜む無気力と孤立は、欲望の回路が切れたサインです。その回路に触れ直すことが、組織においても個人においても、再起動の出発点になります。
- パーパスとは絶え間ない調整運動——自分のどうしようもなさを社会の中で成就させようとする試み、それがパーパスの本質です。一度決めたら終わりの答えではなく、自分・他者・社会の接続を更新し続ける運動体として捉えるとき、パーパスはきれいごとではなく、生きることの深度と重なります。
実践のためのQ&A
本書の内容を踏まえ、読者が直面しやすい「1歩先の疑問」についてまとめました。
この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。
