自分はどんな存在かを、乳児時代から求める!?『欲望論 第2巻 「価値」の原理論』竹田青嗣

『欲望論 第2巻 「価値」の原理論』竹田青嗣野の書影と手描きアイキャッチ

この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール

【経営ビジョンの視点で読み解く本書の核心】人間の欲望は「本能」ではなく、最初から他者との関係の中で編まれます。竹田青嗣は母と子の原初的な場面から出発し、身体・感情・言語がどのように社会へとつながっていくかを辿ります。組織・共創・ブランドを支える人間関係の深層が、ここから見えてきます。
 
1.身体はエロスの中心:快‐不快の感受こそが身体の本質であり、人間が世界に意味を見出す出発点です
2.「泣く」が「能う」になる:母子の要求‐応答の反復が言語と関係世界を生み出す原型であることを示します
3.禁止とルールの内面化:欲望の全能性を手放す経験が、社会性と自己価値感覚の萌芽となります

  • 哲学の話は、どこか「頭の中だけの話」に見えることがあります。
  • でも竹田青嗣が第2巻でやろうとしていることは、真逆です。彼は議論をいったん抽象の高みから引き下ろし、人間のいちばん原初的な場面——生まれたばかりの乳児と、それを迎える母親の関係——から問い直そうとします。
  • なぜそこから始めるのか。それは、哲学が長年見落としてきた問いを立てるためです。「人間はなぜ世界を意味あるものとして経験できるのか」「価値とはどこから生まれるのか」——その答えを、竹田は胎児の身体感覚にまで遡って探ろうとします。
  • 難しく聞こえますが、ここで描かれていることは、私たちが経験してきた(あるいは今も経験している)人間関係の根っこにある構造です。組織の中で誰かが動く理由、対話が機能する条件、承認がなぜ人を変えるのか——その問いへの根本的な答えが、ここにあります。
  • 本書を通じて、人間関係と価値の生成を、いちばん深いところから考え直すきっかけにしていただければと思います。

竹田青嗣(たけだ・せいじ)は、1947年生まれの哲学者・文芸批評家です。早稲田大学国際教養学部名誉教授を務め、ニーチェおよびフッサール現象学の研究者として知られています。

哲学を「専門家のもの」ではなく、人間の生の現実に根ざした思想として捉え直す姿勢が一貫しており、『ニーチェ入門』『現象学入門』など平易な入門書も多数著しています。『欲望論』はその思索の集大成とも言える大著で、欲望・意味・価値という概念を哲学史全体を舞台に問い直し、現代思想の袋小路に突破口を開こうとしています。

身体はエロス的感受の中心である

竹田の第2巻は、驚くほど原初的な問いから始まります。

「そもそも動くことのできない存在、空間性をもたない存在にとって、『身体』とは何だろうか」。

胎児の話です。まだ光も音も届かない子宮の中にいる胎児にも、成長へと向かう身体がある以上、「快‐不快」と呼びうる情動の審級がすでに存在する——竹田はそう考えます。

まだ暗冥の世界のうちにある胎児にも、それが成長へと向かう身体を備えているかぎり、「快‐不快」と呼びうる情動の審級が、すなわちエロス的感受の審級がすでに存在するに違いないとわれわれは想像する。このはじめの情動の審級が、あらゆる生き物にとって身体が身体であることの根源である。

「エロス的感受」というと構えてしまいますが、ここではもっとシンプルな意味で使われています。快を求め、不快を避けようとする、生き物としての根本的な志向性のことです。

心地よいものへ向かい、苦しいものから離れようとする——その感受の力が、身体の本質だと竹田は言います。

そしてもうひとつ重要な洞察があります。身体が「身体」として意識されるためには、感覚‐情動が「最小限の記憶の契機」、つまり時間性を持って生成する必要があるということです。

生き物にとって身体が「身体」として意識されるための前提条件は、感覚‐情動が、刹那滅としてではなく、最小限の記憶の契機、すなわち時間性の契機をもって生成することである。

つまり、一瞬ごとに消えていく感覚ではなく、「さっきも感じた」「また来た」という時間の連続性の中ではじめて、身体は自分のものとして意識される。

感覚が記憶と結びつくことで、「私」が立ち上がるわけです。

ここで重要なのは、竹田が「身体」を物質的なメカニズムとして捉えていない点です。

エロス的感受の原理を持たない「身体」は、ただの「物」にすぎないと彼は言います。

エロス的感受の原理をもたない「身体」、感覚‐情動、知覚や運動の原理をもたない「身体」とは、意味や価値をもたない思考と同じく背理である。

これは経営やブランドの話に直接つながります。

人間は「情報を受け取って合理的に行動する機械」ではありません。快‐不快の感受を持ち、意味と価値を求めるエロス的な存在です。組織や市場を設計するとき、この身体性の次元を無視すると、いくら論理を整えても人は動きません。人が動くのは、その人の「エロス的感受」に何かが触れたときです。それがブランドの核心でもあり、パーパスが機能する条件でもあります。

「泣く」が「能(あた)う」になる——母子の言語ゲームの始まり

身体の本質を「エロス的感受」として捉えた竹田は、次にその感受がどのように「関係の世界」へと開かれていくかを辿ります。そこで中心に置かれるのが、乳児と母親の関係です。

乳児はまず、身体のノイズ——空腹・不快・痛みなどに対する反射として「泣く」ことから始まります。これは最初、意図的な行為ではありません。ただ身体が不快に反応して泣く、それだけです。

しかし「母」はこの泣き声を「要求」として受け取り、応答します。授乳し、あやし、不快を取り除く。その応答によって乳児のエロスが満たされ、身体が落ち着く。この繰り返しが何度か起きると、決定的な変化が生まれます。

乳児が身体の否定的ノイズへの反射として泣くとき、「母」はこれを一つの要求と理解する。「母」の応答がエロスの満足と飽満を生み出すと、乳児は身体的定常性をえて眠り込む。このことが何度か反復されるや変化が生じる。第一に、身体的ノイズの反射としての泣くことは、「母」を呼ぶ一つの企投的手段へとその意味を変える。「泣く」は「子」にとってはじめの「能う」となる。

「泣く」が「能(あた)う」になる——この一文は、言語ゲームの誕生を見事に捉えています。

反射として泣いていた乳児が、「泣けば母が来る」という経験を積み重ねることで、「泣く」を意図的な手段として使い始める。これがはじめての「できる」の経験です。身体の反射が、関係の中で意味を持つ行為へと変容する瞬間です。

さらに「ほほえみ」の登場が重要です。乳児が笑顔を見せるとき、それは単なる表情の変化ではなく、「母」に対して「うれしい」という情動を表現する行為になっていきます。

「笑み」は母親の「うれしい気持ち」を喚起し、この感情がまた「あやし」(さらにはあそび)を引き出す。「あやし」「あそび」がさらなる「笑み」「笑い」を喚起すると、そこには「楽しい気持ち」(愉楽)の交換と共有化(間主観化的共有)が生じる。

「泣く」が一方的な要求だとすれば、「ほほえむ」は双方向の関係感情の交換です。

ここではじめて、母子のあいだに「共有された世界」が生まれる。これが言語ゲームの原型であり、社会が立ち上がる最小単位です。

組織の現場に引き寄せると、この構造はとても示唆的です。新しいメンバーが組織に入るとき、最初は「何をすれば認められるか」を探る段階があります。小さな行動(「泣く」)が承認(「母の応答」)と結びつく経験を積み重ねることで、「自分はここで能うことができる」という感覚が生まれる。その感覚が、主体的な参加の出発点になる。

共創の場でも同じです。参加者が「自分の声が届いた」という小さな経験を積み重ねることで、はじめて本当の意味での参加が始まります。「要求‐応答」の反復こそが、関係世界を育てる根本条件です。

禁止とルールの内面化——欲望の最初の社会化

母子の関係は、しかし「要求が満たされる」だけでは終わりません。

やがて「母」は禁止を始めます。

触ってはいけないもの、してはいけないこと——欲望の全能性に、はじめて「否」が突きつけられる瞬間です。

「母」の禁止は、さまざまな対象や行為についての「禁止‐許可」の指示へと進んでゆく。この禁止‐許可の要求によって「子」は、大人が形成している文化的世界の諸規範を受け入れてゆかねばならない。諸規範は、はじめは禁止の身振りと「母」の感情表現によって伝えられるが、やがて双方向的な言語ゲームの成立に応じて「言葉」による規範=ルールの要求と応答へと推移する。

ここで子どもに起きることは、欲望の「抑圧」ではなく、欲望の「転移」です。

身体エロス(お腹がすいた、触りたい)の中心性が、「母」との関係感情のエロス(母に認められたい、母と一緒にいたい)へと移っていく。欲望の対象が変わるのではなく、欲望の向かう先が組み替えられていく。この転移こそが、社会化の根本的なメカニズムです。

「母」の禁止‐要求によって幼児は初期的なエロスの全能性を放棄し、身体エロス、能うエロスの中心性を、「母」との関係感情のエロスへと転移させねばならない。関係感情のエロスは、「子」が家政的言語ゲームにおいて諸ルールを内面化してゆくことの前提となり、さらに「母」による「よい子」と「わるい子」という分節的規定を介して、「自己価値欲望」と「自己意識」を形成する道へとつながっている。

「よい子」と「わるい子」という分節——これは単純な善悪の話ではありません。他者の評価を通じて「自分はどういう存在か」を意識する、自己価値感覚の萌芽です。ここではじめて、他者の目から自分を見るという構造が生まれます。

これは竹田の欲望論における決定的な転換点です。欲望は個人の内側から湧くのではなく、他者との関係の中で形づくられる。そしてルールの内面化は、欲望を消すのではなく、欲望を社会的に「能う」形へと組み替えていく過程です。

組織論として読むと、ここには深い示唆があります。ルールや規範を「外側から押しつけるもの」として捉えると、それは常に欲望との対立として経験されます。しかし本来ルールとは、複数の欲望が共存するためのインフラです。「よい子」「わるい子」の分節が自己価値感覚を育てるように、組織の規範も、メンバーの「自分はここでどういう存在か」という感覚と深く結びついています。

ルールを単なる管理ツールとして設計するか、欲望の転移を支える関係の文法として設計するか——竹田の議論はその問いを、人間の発生の根本から照らし出しています。


今回の内容を、できるだけシンプルに整理してみます。

第2巻の前半で竹田が言っていることは、3つに絞れます。

まず、人間の身体の本質は「快‐不快の感受」にあります。
  ↓
エロス的感受を持たない存在は、意味も価値も持てない。
  ↓
人間は情報処理機械ではなく、快を求め不快を避ける生き物であるという、シンプルだけど根本的な前提です。

次に、「泣く」が「能う」になる——要求と応答の反復の中で、反射が意図的な行為へと変わり、関係世界が生まれます。言語ゲームの原型は、この母子の「要求‐応答」にあります。

そして欲望は「抑圧」されるのではなく「転移」します。
  ↓
禁止とルールの内面化を通じて、身体エロスは関係感情のエロスへと組み替えられ、「自分はどういう存在か」という自己価値感覚が育まれる。
  ↓
これが社会化の根本的なメカニズムです。

まとめ

  • 身体はエロス的感受の中心——快‐不快の感受こそが身体の本質であり、人間が世界に意味と価値を見出す出発点です。人は情報ではなく、エロス的感受に触れるものによって動きます。組織やブランドの設計は、この身体性の次元を外せません。
  • 「泣く」が「能う」になる——母子の「要求‐応答」の反復が、言語と関係世界を生み出す原型です。「自分の声が届いた」という小さな経験の積み重ねが、主体的な参加と創造の出発点になります。共創の場でも組織でも、この構造は変わりません。
  • 禁止とルールの内面化——欲望は抑圧されるのではなく転移します。ルールの内面化を通じて、欲望は社会的に「能う」形へと組み替えられ、自己価値感覚が育まれます。ルールを管理ツールとしてではなく、欲望の転移を支える関係の文法として設計できるかどうかが、組織文化の深度を決めます。

実践のためのQ&A

本書の内容を踏まえ、読者が直面しやすい「1歩先の疑問」についてまとめました。

メンバーが主体的に動いてくれません。どうすれば変わりますか?

竹田の視点から言えば、主体性は「意識を持て」と言っても生まれません。「泣く」が「能う」になるように、自分の行動が応答された経験の積み重ねの中から育まれます。まず「要求‐応答」の小さな成功体験をつくること——メンバーの声に応え、行動を認め、「ここでは自分が能うことができる」という感覚を育てることが先決です。

組織のルールや規範が形骸化しています。どう考えればいいでしょうか?

ルールが形骸化するのは、それが欲望の転移を支えられていないからです。竹田的に言えば、ルールは「外側からの押しつけ」ではなく、メンバーの「自分はここでどういう存在か」という感覚と結びついているとき、はじめて機能します。まず「このルールは誰のどんな欲望に応えているのか」を問い直すことが出発点です。

ブランドに「感情的なつながり」を持たせたいのですが、どうすればいいですか?

竹田が言う「エロス的感受」への接触が鍵です。機能や特長を伝えるだけでは、人の身体感覚には届きません。「快‐不快」の感受に触れる体験——使ったときの心地よさ、所有することの誇り、誰かとつながる喜び——そういった感覚レベルの設計が、ブランドへの情動的なつながりを生みます。言葉より先に、感受の設計を問うてみてください。

この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。

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