この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
【経営ビジョンの視点で読み解く本書の核心】偶然性を認めることは、諦めではありません。グールドとドーキンスの論争が示すのは、科学の言葉では語りきれない「ほかでもありえた」という人間的感覚の本質性です。理不尽さを知った上で、それでも因果の線上を歩む——その態度こそが、充実した生き方の土台になります。
1.グールドとドーキンスの論争:適応主義をめぐる論争は、進化を「なぜなぜ物語」で説明しきれるかどうかという、科学の根本的な問いを浮かび上がらせました。
2.科学の言葉では語りきれないもの:偶発性という概念は、科学的方法論を超えた「ほかでもありえた」という人間的感覚に属するものであり、それ自体に深い意味があります。
3.理不尽を知って、それでも生きる:偶然性と因果の両方を抱えながら、楽しみつつ一生懸命に生きることが、本書が最終的に示す人間の態度です。
- あなたは、自分の人生に起きたことのすべてに「理由」があると思いますか?
- 実は、生物の進化の歴史を見ると、起きたことの多くに明確な理由はなく、「たまたまそうなった」という偶然性が深く関わっています。
- なぜなら、グールドが示したように、進化の歴史は適応という合理的なメカニズムだけでは説明しきれない偶発的な事件や事故に満ち満ちており、「ほかでもありえた」という可能性を常に内包しているからです。
- 本書は、グールドとドーキンスという2人の巨人の論争を丁寧に追いながら、偶然性という概念が科学の言葉を超えた人間的な感覚に属するものであることを明らかにしていきます。
- 本書を通じて、理不尽な偶然性を認めながらも、それでも因果の線上を信じて楽しみながら一生懸命に生きるという、豊かな人間的態度を手に入れることができます。
吉川浩満(よしかわ・ひろみつ)は、1972年生まれの文筆家・編集者です。山口大学人文学部を卒業後、株式会社ヤフーに勤務しながら、哲学・思想・科学をまたぐ独自のフィールドで執筆活動を続けています。著書に『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新社)、山本貴光との共著に『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(筑摩書房)などがあります。
本書『理不尽な進化』は、科学と哲学の境界を行き来しながら、進化論が人間の自己理解にとってどのような意味を持つのかを問い続ける一冊です。後編となる今回は、グールドとドーキンスの論争を軸に、偶然性という概念が私たちの生き方にどう関わるかを探っていきます。
前回の投稿はこちら「「最適」なものだけが残る、は本当か!?『理不尽な進化 増補新版 ――遺伝子と運のあいだ』吉川浩満」からご覧ください。
グールドの問いは適応主義の外側を照らした
スティーヴン・ジェイ・グールドは、進化生物学の主流派が陥っていた「適応主義」という考え方を鋭く批判しました。適応主義とは、生物のあらゆる器官や行動を適応的なものと考え、すべての生物の特質は自然淘汰の結果として進化的な最適値へと調整されているはずだという信念です。
グールドはこれに異を唱えました。現実の生物の歴史は偶発的な事件や事故に満ち満ちており、すべてが自然淘汰のおかげだとは言えない。いまあるような生物の多様性がかたちづくられるには、自然淘汰以外のさまざまな要因が関与してきた——というのがグールドの主張です。
この論争の舞台となったのが、1978年にグールドがロイヤル・ソサエティで発表した「スパンドレル論文」です。批判の対象である主流派が集う由緒正しき場において、グールドはあえて適応主義プログラムを批判するという挑発的な行動に出ました。
これに真っ向から反論したのがリチャード・ドーキンスです。ドーキンスは、ダーウィニズムは生まれついての機能主義科学であり、「複雑なデザインがどうしてつくられたのか」という問いが「なんのために?」に答える機能主義的アプローチを要請すると主張しました。生物の特質に「なぜなぜ物語」で答えようとすることは、科学として正当であるというのです。
グールドは言う。主流派の研究者や啓蒙家たちが、生物のあらゆる器官や行動を適応的なものと考えているからだ。……しかし、この考え——グールドはそれを「適応主義」と呼ぶ——はまちがっている。現実の生物進化の有様はそのようなものではないからだ。実際の生物の歴史は偶発的な事件や事故に満ち満ちており、すべてが自然淘汰のおかげなどということはできない。 ——吉川浩満『理不尽な進化 増補新版』
この論争が深く面白いのは、どちらが「正しい」かという問題ではなく、科学という営みそのものの限界と可能性を問う論争だったからです。グールドが守ろうとしたものは、単なる反主流派の主張ではなく、もっと根本的な何かでした。
偶然性は科学の言葉を超えている
グールドが論争を通じて守ろうとしたのは、「偶発性」という概念です。偶発性とは「ほかでもありえた」という事態をあらわす概念です。
生物の進化はあらかじめ決められたゴールへ向かって段階的に進むようなものではない。ダーウィン以前の発展的進化論は、進化というものを目的や終点への発展段階と考えましたが、それではうまくいかないことが明らかになりました。ダーウィニズムの革命性は、進化を目的も終点も持たないもの、つまり偶発性に左右されるものとして描いたことにあります。
グールドはこれを「生命史のテープ」という比喩で解説しています。もし生命史のテープを5億年前のカンブリア紀まで巻き戻して、そこにさして重要でないほんのちょっとした変更を加えたのちにテープをリプレイさせてみたらどうなるか。そこから展開される歴史は自然法則に則った筋の通ったものだろうが、現実の歴史とはまったく異なった様相を呈することだろう——というものです。
しかし著者は、この偶発性の概念がある意味で科学の言葉を超えてしまっていることを指摘します。
グールドが適応主義プログラムにたいする最後の砦として独自の味付けをほどこした偶発性の概念は、「方法」によってもたらされる学問的知識を超えたものになっている。いくらグールドがそれを科学の言葉で語ろうとしたところで、それは事実上、ハイデガーやガダマーが追究した人間の根源的な世界経験としての「真理」に属する事柄であり、あくまで非方法的な「理解」によって感受されるしかないものである。 ——吉川浩満『理不尽な進化 増補新版』
つまり、「ほかでもありえた」という感覚は、科学的方法論によって証明したり反証したりできるものではなく、人間が世界の中に内在しながら世界と関わる存在であることから来る、根源的な感覚なんです。
グールドが執拗に偶発性にこだわったのは、科学的に正しいからではなく、それが私たちが知的世界へ入っていく際のアクセスポイントであり、人間として世界を語る際の根本的条件だからでした。
科学の言葉では語りきれないものが、確かにある。その事実を直視することが、本書の核心に触れることでもあります。
理不尽を知った上で、因果の線上を楽しみながら歩く
偶然性を認めることは、諦めや虚無主義につながるのでしょうか。本書が最終的に示す答えは、その逆です。
恐竜の絶滅を例に考えてみましょう。
恐竜はまず、たまたま起きた天体衝突のときに、たまたま繁栄を迎えていたという点で運が悪かった。
↓
さらに、目の不運が恐竜を襲います。
↓
たまたまもたらされた衝突の冬が、
↓
たまたま自分にとって徹底的に不利な環境だったというものです。
これが「理不尽な絶滅」の構造です。
ゲームのルールが突然変わり、それまで何億年もかけて培ってきた適応能力が一瞬で無効化される。この理不尽さは、努力や能力の問題ではありません。
しかし同時に、その理不尽な絶滅の跡地こそが、つづく革新的進化のためのステージになったことも事実です。哺乳類の革新的進化も、恐竜の絶滅という事件が開いた広大な空白によって、はじめて可能になりました。理不尽さは破壊であると同時に、新しい可能性の開口でもあったのです。
適応主義をめぐる論争は、グールドのいう偶発性が非方法的な「どうしてこうなった/ほかでもありえた」という人間的感覚にすぎなかったことを教える。しかし、それにたいする彼の固執——理不尽にたいする態度——は、私たちが知的世界へ入っていく際のアクセスポイントは、そうした人間的感覚にほかならないということもまた教える。 ——吉川浩満『理不尽な進化 増補新版』
この「理不尽にたいする態度」こそ、本書が最後に私たちに手渡すものだと感じます。
世界は最適な場所ではないし、選択の全能の力によって調和させられているわけでもない。気まぐれな不完全さの集積でありながら、十分に——ときにはすばらしく——うまくいっている。それは過去の歴史におけるそれぞれの状況で手に入った奇妙な部品から構築された、まにあわせの仮建築です。
それでも私たちは生きていきます。偶然性があることを知りながら、因果の線上も確かにあると信じながら。理不尽さを嘆くのではなく、「ほかでもありえた」という感覚を抱きしめながら、目の前の一日を楽しみつつ一生懸命に歩いていく。その態度が、進化の理不尽さを学んだ者にしか辿り着けない、豊かな生き方の入口なんだと思います。
まとめ
- グールドの問いは適応主義の外側を照らした――グールドとドーキンスの論争は、進化を「なぜなぜ物語」で説明しきれるかどうかをめぐる根本的な問いでした。適応主義への批判は、科学の方法論が届かない領域があることへの執拗な注意喚起でした。
- 偶然性は科学の言葉を超えている――「ほかでもありえた」という偶発性の感覚は、科学的に証明も反証もできない、人間が世界に内在する存在として持つ根源的な感覚です。それは科学の言葉を超えた「理解」によってしか感受できないものです。
- 理不尽を知った上で、因果の線上を楽しみながら歩く――理不尽な偶然性を認めることは諦めではありません。偶然性と因果の両方を抱えながら、楽しみつつ一生懸命に生きる態度こそが、本書が最終的に手渡す人間的な知恵だと思います。
実践のためのQ&A
本書の内容を踏まえ、読者が直面しやすい「1歩先の疑問」についてまとめました。
この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。
