- 自分が本当にやるべきことは何か――この問いに、あなたは明確に答えられますか?
- 実は、情報にあふれた現代社会だからこそ、私たちは自分自身の「本分」が見えにくくなっているんです。
- なぜなら、「できること」や「やらなければいけないこと」に追われ、自分が生まれ持った資質を活かして「本当にやるべきこと」を見失ってしまっているから。
- 本書は、中国の古典『弟子規』を現代のリーダーシップに活かす一冊です。
- 本書を通じて、不変的な規範と秩序に基づいて自分の「本分」を見つけ、それを全うする生き方を学ぶことができます。
本書は、東洋哲学と現代ビジネスを架橋する2人の専門家によって書かれました。
車文宜さんは中国武漢市出身で、京セラ株式会社で広報や人事企画部を経験した後、英国Manchester Metropolitan Universityで人事におけるブランディングを専攻し修士学位を取得しました。
中国、英国、シンガポール、タイなど各国で、日系企業や多国籍企業の経営者層および中間管理職層を対象に人材育成と組織開発に携わってきた車さんは、2015年にBrandingMe Asiaを設立します。
そこでパーソナルブランディングの確立に東洋哲学を用いたコーチングとトレーニングを実施しています。
もうひとりの著者、手計仁志さんは早稲田大学政治経済学部を卒業後、東レ株式会社に入社しました。
IT機器産業向けの素材営業や市場開拓を長く担当し、2010年には上海に移住して中国企業との取引実績を多数積み重ねました。
帰国後はコーチングを活用した職場組織開発に携わり、2017年より東レ経営研究所のシニアコンサルタントとして活動しています。
専門分野は中国経済とコーチングによるリーダー開発です。
2人に共通するのは、東洋と西洋の両方の文化を深く理解し、理論だけでなく実務の現場で長年活動してきた経験です。
グローバルなビジネス環境の中で、東洋の古典的な知恵が現代のリーダーシップにどう活かせるのかを探求し続けてきた2人だからこそ、『弟子規』という幼稚園の教材が、実はビジネス界で疲弊するリーダーたちを救う鍵になると確信したのです。
情報過多の時代に「本分」を見失う私たち
私たちは毎日、膨大な情報に囲まれて生きています。
SNSを開けば誰かの成功体験が目に入り、ニュースを見れば新しいトレンドが次々と現れ、職場では「やらなければいけないこと」のリストが増え続けています。
そんな中で、ふと立ち止まって考えてみてください。
あなたは今、本当に自分がやるべきことをやっているでしょうか?
会議の時間を気にしながら学童のお迎えに行けないママさん、学問や研究に励みたいのに1年間も就職活動に忙殺される大学生、お客様に会いに行きたいのに社内政治に巻き込まれて身動きが取れなくなる営業担当者――。
こうした状況は、決して珍しいものではありません。
親の立場、学生の立場、企業人の立場で、それぞれの「本分」を全うすることができないまま、私たちは日々を過ごしているんです。
情報にあふれた現代社会だからこそ、自分自身の「本分」が見えにくくなっています。そこで私たちは、この規範と秩序を示すことで、改めて「どんな基準に従って、何をすべきか」を皆さんに考えていただくきっかけになれば
本書の著者たちは、こう語ります。
「できること」をやり、「やらなければいけないこと」をこなす――それだけの日々では、やがて他者の人生のために自分の人生を費やすようになってしまうんです。
『弟子規』という不変的な規範
では、どうすれば私たちは自分の「本分」を見つけることができるのでしょうか?
著者たちが注目したのは、『弟子規』という中国の古典でした。
『弟子規』は清朝初期の1722年頃に書かれた教育書で、もともとは子どもたちに基本的な道徳や生活習慣を教えるためのテキストです。
日本でいえば幼稚園や小学校で学ぶような内容――親への孝行、兄弟との関係、言葉の使い方、友人との付き合い方など、人間としての基本的な規範が書かれています。
一見すると、こうした古典的な教えは現代のビジネス界とは無縁に思えるかもしれません。
しかし著者たちは、「幼稚園の教材がビジネス界を救う」と断言します。
なぜか?
それは、『弟子規』に書かれているのが「不変的な規範と秩序」だからなんです。
リーダーは、誰かが作り出した世界に住むのではなく、自らが住みたい世界を作り出します。
この言葉が示すように、真のリーダーシップとは、他者が設定した基準に従って生きることではありません。
自分自身の不変的な規範を持ち、それに基づいて世界を創造していくことです。
そしてその規範の土台となるのが、『弟子規』のような古典的な知恵なんです。
「本分」とは何か――資質を活かして「やり尽くす」こと
では、「本分」とは具体的に何を指すのでしょうか?
本書では、「本分」を次のように定義しています。
「本分」とは、まず自分が生まれ持った資質を理解し、次に自分が本当にやるべきことを理解し、そして自分だけが持つ資質を活用して、本当にやるべきことを「やり尽くす」ことです。
ここで重要なのは、3つの要素が揃って初めて「本分」になるという点です。
第1に、自分の資質を理解すること。
これは単なる強み弱みの分析ではありません。
自分が生まれ持った本質的な特性、つまり「自分らしさ」の核心を見つめることです。
第2に、本当にやるべきことを理解すること。
「できること」でも「やらなければいけないこと」でもなく、「本当にやるべきこと」です。
これは社会から要請されることとは限りません。
むしろ、自分の内側から湧き上がってくる使命感のようなものです。
第3に、それを「やり尽くす」こと。
中途半端な取り組みではなく、自分の資質を最大限に活用して、徹底的にやり抜くということです。
心の底からこれだと思える自分の「本分」を見つければ、その前ではお金や名誉、権力などは取るに足らないことです。すぐには見つからないかも知れません。それでも「本分」は一生をかけてでも見つける価値のあるもの、見つけるべきものです。
著者たちは、こう語ります。
「本分」を知り、全うしている人間は確かに存在します。
彼らは、外的な報酬や評価のためではなく、自分の内側から湧き上がる使命感に従って生きているんです。
そして、そうした生き方の基盤となるのが、『弟子規』に示された不変的な規範なんです。
「Why」を問い続けることの本質
「本分」を見つけるためには、学び続けることが不可欠です。
しかし、ここで言う「学び」とは、学校の勉強や資格取得のことではありません。
本書が問いかけるのは、もっと根源的な問いです。
なぜ学ぶのか?
この「Why」に対して、本書は3つの調和という答えを提示します。
第一には「人間との調和」です。自分自身の心・言葉・行動を整え、これを前提に身の回りの人間関係を構築することです。
まず私たちは、自分の内側を整える必要があります。
心で思うこと、口に出す言葉、実際の行動――これらが一致していなければ、真の人間関係は築けません。
『弟子規』には、言葉の重要性について次のように書かれています。
言葉を口にする全てにおいて、信用が最も重要「ひとこと言ってしまったら、どんなに早い馬でも追いつくことはできない」という故事がある。言葉の取り消しや後からの言い訳は無意味。話す時は十分にその責任を考えること。
一度口にした言葉は取り消せないからこそ、私たちは言葉に対して誠実でなければなりません。
そして、余計な言葉を減らし、必要なことだけを事実に基づいて話すこと。
が多いよりは、少ないが良い「余計なことを言って、しっぽを捕まれる」という故事がある。必要なことだけを言う。余計な言葉は無駄話。
これは単なる慎重さではなく、言葉を通じて人間関係の調和を保つための知恵なんです。
第二には「自然との調和」です。人間同士だけではなく自然界の動物や植物、鉱物までも含め、存在するものすべてに対して親しく接し、またそれらを受け入れる地球や宇宙までも1つの社会として見ることです。
私たちは、人間だけの世界で生きているわけではありません。
飼っているペットへの愛、森林や海など環境に対する愛も含めて、自然界と調和し良い関係を保つことが大切です。
人間は食物連鎖から外れた超高等動物だと誤解してしまっていますが、本来は自然の一部なんです。
そして第三には「時空との調和」です。私たちの今ある基盤は、数え切れない人々の努力や犠牲のお陰です。先人が私たちのためにまとめ上げた教えを真摯に学び、先人が私たちに残していたのと同じように、次の世代に何かを残していくこと。
この3つの調和――人間、自然、時空――これらすべてと調和することが、学びの本質的な目的なんです。
道徳とは「道」に従うこと
『弟子規』を学ぶことは、道徳を学ぶことでもあります。
しかし、ここで言う「道徳」とは、単なる社会規範や倫理的なルールのことではありません。
本書は、道徳を次のように定義します。
「徳」とは、この見えない「道」を見いだそうと日々意識し行動することです。「道」の存在を知り、受け入れ、逆らわずに従う心の持ち方と行動様式を表します。つまり、「徳がある人」とは宇宙万物の法則に従う心を備えた人を指します。
「道」とは、宇宙万物を貫く自然の理法のことです。
水は高いところから低いところへ流れ、季節は巡り、生命は生まれて育ち、やがて死んでいく――こうした自然の摂理が「道」です。
そして「徳」とは、この「道」に従って生きることなんです。
本書では、老子の「上善如水」という言葉が紹介されています。
どんな状況においても常に心を正しい場所に置き、良い影響力を発揮することができるか。その心を養い、育てることが「徳」を積むことです。私たち人間は、「徳」を積むことによって「道」の一部になることができると考えられています。これを「道に入る」すなわち「入道」といいます。
水は、どんな器にも形を合わせ、低いところへ流れ、万物を潤します。
争うことなく、しかし確実に目的地へ到達します。
この水のように、どんな状況でも心を正しい場所に置き、良い影響力を発揮できる――これが「徳」を積むということなんです。
現代社会は、残念ながら「道徳」とかけ離れたところで成り立っています。
余剰も不足もそれぞれ拡大し、世界中でさまざまな偏りが加速しています。
なぜか?
本能的には人間にも「徳」が備わっているはずなのに、それが欲望や煩悩によって覆い隠されてしまっているからです。人間はいつしか、生物界の食物連鎖から外れた超高等動物だと誤解してしまったかのようです。
私たちは本来、「道」に従う「徳」を備えているはずです。
しかし欲望や煩悩がそれを覆い隠してしまっているんです。
だからこそ、私たちは学び続ける必要があります。
学びを続けると心の品質が高まり、やがて自然体でいられるようになります。この状態をいわゆる「本性」と言います。
学びとは、本来の自分を取り戻す営みでもあるんです。
実践と学習の両輪がなければ真の学びはない
ここで、学びについて重要な指摘があります。
それは、実践と学習は両輪でなければならないということです。
実践する努力をせずに、文学を学ぶと実践と学文を両方行って初めて効果が出る。人は学びが進むと傲慢になり他人を見下す。「自分はすごい、あの人は分かってない」と。両親に命令したり、友人を見下したり。原因は実践をしないから。それでは「学・習」の真の利益を得ることはできていない。
知識だけを増やしても、それを実践しなければ、かえって傲慢になってしまいます。
「自分はこんなに知っている」という優越感が生まれ、他人を見下すようになるんです。
逆に、実践だけで学ばないとどうなるか?
実践するだけで学ばないと、それはそれで偏った人間になる。とても真剣、とても熱心でも、聖人賢者の教育を規範とした修身ができなければ、間違っていても気づかない。
実践だけでは、自分の行動が正しいのか間違っているのか判断できません。
熱心に取り組んでいても、方向性が間違っていれば意味がないんです。
自分の見解に執着するばかりで、思想がはっきりしない自身の見解に執着していると原理原則が曖昧になる。必ず実践と学文の両方を呼応させてながら修身を行う。
だからこそ、実践と学習は両輪なんです。
本書では、学習の4つの段階が紹介されています。
第1には、意識していないので行動ができない状態です。当然ですね、そもそも行動する気がないのですから。 第2には、意識はしているのだけれど行動ができない状態です。まさに練習中という状態です。 第3には、意識していて行動ができる状態です。 第4には、意識せず行動ができる状態です。大人になれば、テレビを見ながらほぼ無意識的に歯を磨くこともできるようになります。他にも、無意識的に毎日行っている行動はたくさんあるでしょう。これがいわゆる「習慣」という状態です。
真の学びとは、第四段階まで到達すること――つまり、意識しなくても自然に行動できる「習慣」にすることなんです。
そして、こうした習慣化された行動の積み重ねが、やがて「本分」の発見につながっていきます。
学校を卒業したら学校の勉強は終わりますが、ここでいう学習とは勉強のことではなく、「本分」を見つけることです。学習とは、自分の「本分」を探求する長い旅路ともいえるでしょう。
学びとは、一生続く「本分」の探求なんです。
「因」を育む生き方――本分を全うするために
「本分」を見つけ、それを全うするために、私たちはどう行動すればいいのでしょうか?
本書が提示するのは、「因果」という仏教の考え方です。
自然の理法=「因果」
すべてのことには原因があり、結果があります。
そして、原因と結果の間には「縁」という条件が介在します。
これを「因縁果」と呼びます。
たとえば、種(因)を蒔いても、水や日光や土壌(縁)がなければ、芽(果)は出ません。
逆に言えば、良い結果を得たければ、良い原因を作り、良い条件を整える必要があるんです。
ここで重要なのは、私たちがコントロールできるのは「因」だけだということです。
「縁」や「果」は、私たちの意志だけでは完全にはコントロールできません。
だからこそ、唯一コントロールできる「因」を良い方向に育むことが大切なんです。
「因縁果」のつながりを理解した今、唯一コントロールできる「因」を良い方向に育むために、実際にどんな行動をするべきかについて掘り下げてみます。
ここでキーとなる言葉が「修善」です。
断悪修善――自分の内なる悪を断つ
「修善」とは、もともと「断悪修善」という仏教用語から来ています。
読んで字のごとく、悪いことを断ち切って善を修行するという意味です。
しかし、ここで注意すべきは、断ち切るべき「悪」とは何かということです。
本書は、こう指摘します。
ここで断ち切る悪とは、性格の悪い人たち、治安の悪い場所、空気の悪い環境、など自分の身の周りではなく、自分自身の内なる悪なんです。
私たちは、悪いことを誰か他人のせいにしたり、環境のせいにしたりしがちです。
しかし、本当に断ち切るべきは、自分の内側にある悪なんです。
悪いことをするのは、自分が可愛いからというのは誤解 悪いことをするのは、自分を愛することができていないから
これは深い洞察です。
自分を本当に愛しているなら、自分を傷つけるような悪いことはしません。
悪いことをするのは、自分を大切にできていないからなんです。
慎ましく自分を愛する、過ちは懺悔する
だからこそ、まず自分を慎ましく愛すること。
そして、過ちを犯したら素直に懺悔すること。
これが「断悪修善」の第一歩なんです。
『弟子規』には、誉められることと欠点を指摘されることについて、次のように書かれています。
誉められて恐れ、欠点を指摘され受け入れる正しい姿勢は、誉められたら恐れて警戒し、欠点はどんな内容でも一旦は有難く受け取る。自分にとって耳の痛い言葉こそ宝。
誉められたら謙虚になり、批判されたら感謝する――これは簡単なことではありません。
しかし、自分の欠点を指摘してくれる人こそ、本当に自分のことを考えてくれている人なんです。
一生をかけて本分を見つけ、パーソナルブランドを築く
「本分」は、すぐに見つかるものではありません。
「本分」とは、自分の生まれ持った資質を理解し、やるべきことを理解し、資質を活用してそれを「やり尽くす」ことです。心の底からこれだと思える自分の「本分」を見つければ、その前ではお金や名誉、権力などは取るに足らないことです。すぐには見つからないかも知れません。それでも「本分」は一生をかけてでも見つける価値のあるもの、見つけるべきものです。そのために私たちは学び続けるのです。
一生をかけて見つける――それが「本分」なんです。
そして、この「本分」を見つけることは、現代的な言葉で言えば「パーソナルブランディング」につながります。
複雑化する社会だからこそパーソナルブランディング
本書は、こう指摘します。
パーソナルブランドとは、単なる自己PRやマーケティングの手法ではありません。
そしてパーソナルブランドは、相手に対する単なる優越感ではなく、社会や組織の中で生きる自分自身の使命や役割そのものです。それらを活かして相手や社会のために行動してこそのパーソナルブランドです。
自分の使命や役割を理解し、それを社会のために活かすこと――これがパーソナルブランディングの本質なんです。
そして、それは『弟子規』が示す「本分」の考え方と完全に一致します。
『弟子規』には、他者との関わり方について、次のように書かれています。
人の善行を称えることは、即ち善良いことを広く伝えると、あの人も頑張っているからと言うことで、聞いた人の励みになる。そういう風習を支援するのは善いこと。
他者の善い行いを称える――これは単なる社交辞令ではありません。
良いことを広く伝えることで、社会全体に良い循環が生まれるんです。
その人がこれを知れば、自身をさらに励まし努力しようとする自分の善い行いで励みになっている人がいることを知れば、自身のモチベーションもさらにアップする。社会に良い循環をもたらす。
これこそが、真のパーソナルブランディングです。
自分だけが目立つことではなく、社会全体に良い影響を与えること。
そして、それによって自分自身もさらに成長していくという良い循環を作ることなんです。
最後に、『弟子規』の中で印象的な一節を紹介します。
老いは容易に到来する、今という時間を惜しみ大事にする学問を求める人は一刻も無駄にすることなく向上心をもって励む。本分をしっかり自覚していれば、疲れることはない。
時間は有限です。
だからこそ、今この瞬間を大切にして、自分の「本分」を探求し続けること。
そして、「本分」をしっかり自覚していれば、疲れることはないんです。
なぜなら、それは自分が本当にやるべきこと、やりたいことだからです。
与えるのは多く、受取るのは少しにするのが宜しい与えること、すなわちお布施や寄付。与えるという行為は一見すると損しているようだが、結果として得ることの方が多い。善い因には善い結果がついてくる。貢献を多くすれば争いは起きない。
与えることは、決して損ではありません。
むしろ、与えることで良い「因」を作り、やがて良い「果」が返ってくるんです。
そして何より、貢献することで争いが起きなくなります。
これが、「本分」を全うし、社会と調和して生きるということなんです。
論語とあわせて、ぜひ菜根譚にも触れていただくのはいかがでしょうか!?菜根譚については、こちらの1冊「生きる軸となりうるもの『菜根譚コンプリート:本質を捉える「一文超訳」』野中根太郎」もぜひご覧ください。

まとめ
- 情報過多の時代に「本分」を見失う私たち――『弟子規』という不変的な規範に基づいて、自分が生まれ持った資質を理解し、本当にやるべきことを「やり尽くす」。これが「本分」です。情報にあふれた現代だからこそ、古典的な知恵が私たちの道標となります。
- 「Why」を問い続けることの本質――学ぶ目的は、人間・自然・時空との3つの調和を実現すること。「道」という宇宙万物の法則に従い、「徳」を積むことで、やがて自然体で生きられる「本性」を取り戻します。そのためには、実践と学習の両輪が不可欠です。
- 「因」を育む生き方――本分を全うするために――私たちがコントロールできるのは「因」だけ。自分の内なる悪を断ち、善を修めることで、良い結果を引き寄せます。「本分」を一生かけて見つけ、それを社会のために活かすことが、真のパーソナルブランディングであり、充実した人生につながります。
