- カウンセリングとは、特別な人だけが受けるものでしょうか?
- 実は、カウンセリングは私たちの日常にある「対話」そのものの本質を映し出しています。
- なぜなら、人と人が出会い、話し、聞き、影響し合い、そして別れていく――その営みの中にこそ、人が変化していく力が宿っているからです。
- 本書は、臨床心理学者・東畑開人さんが、カウンセリングという営みを通して、「人が人とともにあること」の意味を問い直した一冊です。
- 本書を通じて、終わりがあることの意味、さみしさに耐えることの価値、そして小さな変化を見失わないことの大切さを知ることができます。
東畑開人(とうはた・かいと)さんは、臨床心理学者であり、臨床心理士、公認心理師として活動されています。十文字学園女子大学人間生活学部准教授。白金高輪カウンセリングルームを主宰し、実際にカウンセリングの現場に立ち続けている実践家でもあります。
東畑さんは、心理学の世界に身を置きながらも、その専門性の枠を超えて、人間の営みそのものを深く洞察する書き手として知られています。前著『居るのはつらいよ』では、デイケア施設での日常を通して、「ただそこにいること」の意味を問い直し、大きな反響を呼びました。
本書『カウンセリングとは何か』は、カウンセリングという営みを、単なる心理療法の技術論としてではなく、「人が人と出会い、影響し合い、変化していく」という普遍的な人間関係の問題として捉え直した一冊です。河合隼雄さんとの出会いから始まる東畑さん自身の歩みを織り交ぜながら、カウンセリングの本質に迫っていきます。
専門用語を多用せず、時にユーモアを交えながら、しかし決して軽くはない問いを投げかけてくる東畑さんの文章は、心理学に詳しくない読者にも深く響きます。それは、東畑さんが「カウンセリングとは何だったのか」という問いを、自分自身に向けて真摯に問い続けてきた人だからこそ書ける言葉なのでしょう。
終わることの意味――時間と関係性の本質
カウンセリングの本質的な特徴は、時間びったりに終わることにあるんです。
これは一見、当たり前のことのように思えるかもしれません。でも、よく考えてみると、私たちの日常の人間関係で「時間びったりに終わる」ものって、実はそんなに多くないんですよね。友人との会話は自然と途切れていくし、家族との時間に明確な区切りはありません。仕事の打ち合わせだって、重要な話題が出れば延びることもあります。
でも、カウンセリングは違います。どんなに話が途中であっても、どんなに話が盛り上がっていても、時間が来れば終わります。そして、その「終わり」があるからこそ、次の「始まり」があるんです。
困っていることが解決していなくても、話が途中であったとしても、「時間です」と言う。僕は終わります。お金を頂いて、「また来週」と別れる。
この引用を読んだとき、私は中小企業診断士として経営者の方々と対話する自分の立場を思い浮かべました。私たちの関係も、ある意味で「短期的な終わりを繰り返す」時間で区切られた関係なんです。
そして、この「お金のやり取り」と「時間による区切り」が、実は関係性にとって本質的な意味を持っているんだと、東畑さんは指摘します。
お金を払うということは、その関係が「いつか終わる」ということを意味します。永遠に続く関係ではない。だからこそ、人は自立していかなければならない。終わりがあるからこそ、孤独を感じる。そして、その孤独と向き合うことで、人は自分自身と対峙していくんです。
終わりは孤立ももたらすし、自立ももたらす。
この言葉は、とても重いです。
私たちはつい、誰かとの関係が「ずっと続くこと」を理想だと思ってしまいます。
でも、本当にそうでしょうか。終わらない関係は、時に依存を生み、成長を止めてしまうこともあります。
カウンセリングの面接室で起こることの多くは、実は「面接と面接のあいだの時間」に起きるのだと、東畑さんは言います。カウンセラーと会っていない時間に、人は一人で考え、感じ、試し、そして変化していくんです。
あいだの時間 一方で、ユーザーたちは会っていない時間に、つながっていることを体験して「もう」います。何か起きたらカウンセラーに話そうとします。実際には話さないかもしれないけれども、夢を見たりします。心のどこかでカウンセリングで行われている作業が続いている。
これは、経営者との対話でも同じだと思います。私が経営者の方とお会いするのは、月に1回とか、2ヶ月に1回とか、限られた時間です。でも、その限られた時間があるからこそ、経営者の方は「次に会うまでに、これを考えてみよう」「これを試してみよう」と思うんです。
会っていない時間に、人は自分で考え、自分で動く。
そして、また会って、話す。
その繰り返しの中で、少しずつ変化が起きていくんです。
もし、いつでも会えて、いつでも相談できる関係だったら、どうでしょう。人は自分で考えることをやめてしまうかもしれません。だからこそ、「時間で区切ること」「終わりがあること」が、実は人の自立と成長を支えているんですね。
さみしさに耐えること――他人であることの根源的な価値
カウンセリングには、もう一つの本質的な特徴があります。
それは、カウンセラーとユーザーが「他人である」ということです。
カウンセリングの帰り道には、ユーザーとカウンセラーは他人である、という根源的なさみしさがあります。 他人であることの根源的なさみしさ。 人はこのさみしさに耐えて弱い、ということを認めることができなかった結果的に注目するのです(いうことを認めてしまったら人はどうなってしまうのでしょうか)。「分離」とか「離乳」という言葉を使って88、このさみしさが人間の宿命的なさみしさであり、これをいかに受け入れるかが人生の課題なんだりしていくかに心の発達があることを見出しました。
この部分を読んだとき、私は深く頷きました。
私たちは、誰かと「完全につながること」を求めてしまいがちです。家族なら、恋人なら、親友なら、自分のことを完全に理解してくれるはずだと思ってしまう。でも、実際にはどんなに親しい関係でも、人と人は「他人」なんです。
そして、その「他人であること」を認めることが、実はとても難しい。なぜなら、それは「さみしさ」を引き受けることだからです。
でも、東畑さんは言います。このさみしさに耐えること、他人であることを認めることこそが、人の成長にとって不可欠なのだと。
カウンセリングという場は、この「他人であることのさみしさ」を、安全な形で体験できる場所なんです。カウンセラーは、ユーザーのことを真剣に聞き、理解しようとします。でも、決して「一体化」はしません。あくまで他人として、境界線を保ちながら、そばにいるんです。
毎回の面接の終わりには、間隔から印断された「孤立」の痛みが潜んでいる。これをユーザーたちはそれぞれのやり方で体験するし、そしてそれぞれのやり方でその痛みから心を守ろうとします。
終わりがあるから、孤独を感じる。孤独を感じるから、自分と向き合わざるを得なくなる。
そして、その孤独に耐えながらも、「また次に会える」という希望がある。
この繰り返しの中で、人は「他人とつながりながらも、自分は自分である」ということを学んでいくんです。
これは、あらゆる人間関係に通じる真実だと思います。
私が経営者の方々と対話するとき、私はあくまで「外部の他人」です。会社の中の人間ではありません。だからこそ、経営者の方は、社内では言えないことを話してくれることがあります。そして、私がいなくなった後、経営者は一人で考え、決断していかなければならないんです。
多分、自分だけが自分を一番だと思っていなかったんです。ここに来て、それがわかったのか、一番大きかった気がします
この引用は、カウンセリングを受けた人の言葉ですが、とても印象的です。「自分だけが自分を一番だと思っていなかった」という気づき。これは、他人との関係の中でしか得られない気づきなんです。
自分一人で考えていると、自分のことを客観視できません。
でも、他人という鏡があることで、自分が見えてくる。そして、その他人は、決して自分と一体化しない。だからこそ、自分は自分として立っていかなければならない。
このさみしさに耐えることが、実は人が前に進むために不可欠なものなんです。
小さな変化を見失わないために――生き延びることと生きること
では、カウンセリングにおける「変化」とは何でしょうか。
再三繰り返してきたように、カウンセリングでは生活の変化と人生の変化の両方が目論まれます。 生存を可能にすることと、探究を実現すること、ここに二つの変化がある。
東畑さんは、カウンセリングには2つの変化があると言います。
一つは「生活の変化」――つまり、今を生き延びるための変化です。
もう一つは「人生の変化」――自分が本当に生きたい人生を探究するための変化です。
そして、この2つは決して矛盾するものではなく、どちらも大切なんです。
生き延びるとは今現在を切り抜けることでもあるけど、同時に現在を過去にすることでもあります。そのとき、僕らは文学的に自分のことを、つまり現在をつなぐ、過去と未来を手にします。これが作戦会議でも、冒険でも行われている。そして、このことがとれだけ心を助けるかを僕は日々深く感じてきました。
この部分を読んで、私は深く納得しました。
生き延びることは、ただ今を凌ぐことではないんです。
今を過去にすること。
つまり、今起きていることを物語として捉え直し、意味づけることだったんですね。
私が経営者の方々と対話するとき、よく「振り返り」をします。この3ヶ月で何が起きたか、どんな決断をしたか、それによって何が変わったか。そうやって振り返ることで、経営者の方は「自分は前に進んでいる」ということを実感するんです。
東畑さんは、こうも言います。
つまりは個人の小さな変化が見失われやすい時代だからこそ、カウンセリングに意味がある。
現代社会は、大きな変化ばかりが注目されます。劇的な成功、大きな転換、目に見える成果。でも、人の本当の変化は、もっと小さくて、もっと時間のかかるものなんです。
そこには限界もある。身体も、社会も、変わらない部分があり、変わろうる部分も変わるまでに多大な時間がかかることがある。それでも、臨床家はどのように人間に注目できるのか。次の約束まで、深夜に起こいく。そこで生活と人生において注目するのです。カウンセリングが終わる。次の約束まで、現実に戻っていく。そこで生活と人生と探究の中に生きる。そして再び次に会う。この繰り返しの中で、心は少しずつ変わっていくのが、カウンセリングの最大の治療要因なのでは。人は一人ではつらいけど、話せる場所があり、話せる相手がいること。これが心を支え、これまでとは異なる新しいことをはじめる
この繰り返しの中で、心は少しずつ変わっていく。
私たちは、誰かと話すことで、自分を確認します。話を聞いてもらうことで、自分の体験が「本当にあったこと」として認められます。そして、その積み重ねの中で、少しずつ前に進んでいくんです。
カウンセラーの仕事のひとつが解釈でした。それはユーザーの心の中で主流になっている物語に対して、カウンセラーの視点から見た別の物語を語ることです。中立的で客観的なことで心を揺らしていくのが僕の仕事です。
経営者との対話でも、私は同じことをしているのかもしれません。経営者の方が「うちの会社はダメだ」と思っているとき、私は別の見方を提示します。「でも、この部分は確実に成長していますよね」と。
それは、励ましではなくて、別の物語を語ることなんです。同じ現実を、違う角度から見る。その視点の多様性が、人に新しい可能性を見せてくれるんです。
そして、東畑さんは最後にこう締めくくります。
カウンセリングとは何だったのか――この本を終わり切る
カウンセリングとは、特別な技術でも、特殊な治療法でもない。それは、人と人が出会い、話し、聞き、影響し合い、そして別れていく。その繰り返しの中で、小さな変化を大切にしていくこと。そのための、一つの形なんです。
そして、それはカウンセリングだけに備わる特別な作用ではありません。ハルカさんがさまざまな人との別れの中で学んできたように、私たちは日々の人間関係の中で、誰かに影響を与え、誰かから影響を受けながら、少しずつ変化しているんです。
生存の時代だからこそ、つまりは個人の小さな変化が見失われやすい時代だからこそ、カウンセリングに意味がある。
この言葉を、私は深く心に刻みたいと思います。
大きな成果や劇的な変化ばかりを追い求めるのではなく、日々の小さな対話の中で起きている変化を、丁寧に見つめていくこと。そして、その変化を支えるために、時間を区切り、さみしさに耐え、他人として寄り添い続けること。
それが、人が人を支えるということなのかもしれません。
対話(カウンセリング)の可能性については、こちらの1冊「決断を忘れずに!?『「対話と決断」で成果を生む 話し合いの作法』中原淳」もぜひご覧ください。

まとめ
- 終わることの意味――時間と関係性の本質――関係性がブツっと切れる、そこで感じる孤独こそが、人をしなやかに強くするのですね。
- さみしさに耐えること――他人であることの根源的な価値――カウンセリングという時間と別れと改めての出会いの循環(対話)のリズムにこそ、人を変える力があるのです。
- 小さな変化を見失わないために――生き延びることと生きること――人が人を支えるということ、人は人によって救われ、そして生きる意味を見いだせるのだと思います。
