- 最近、最後にスーパーマーケットを訪れたとき、何を考えていましたか?おそらく、今晩の献立や、予算内で収まるかどうか、あるいはレジの列がどれだけ混んでいるか、そんなことだったんじゃないでしょうか。
- 実は、そのありふれた日常の場所に、人間存在の本質を問う哲学的な問いが潜んでいるんです。人間とは何か。生きるとは何か。働くとは何か。こうした根源的な問いが、野菜売り場やチーズ売り場、レジの列の中に隠れています。
- なぜなら、スーパーマーケットは人間社会の縮図だからです。経済の仕組み、人間関係、食べるという生存の根幹、そして働くということ。これらすべてが交差する結節点であり、そこでは誰もが等身大の姿を晒さざるを得ません。肩書きも立場も通用しない、プリミティブで平等な空間なんです。
- 本書は、銀色夏生さんがスーパーマーケットという日常的な場所を通して見出した、人生についての洞察を集めたエッセイ集です。チーズの値段に一喜一憂し、包装紙の匂いに心を動かされ、レジの列で原始的な戦いを繰り広げる。そんな些細な瞬間の中に、私たちが見失いがちな大切なものが隠れています。
- 本書を通じて、あなたは日常の風景がまったく違って見えてくるはずです。次にスーパーマーケットを訪れたとき、少し立ち止まってみてください。そこには、あなた自身と人生についての小さな発見が待っているかもしれません。
銀色夏生さんは、詩人、写真家、エッセイストとして独自の表現世界を築いてきた方です。1960年生まれ、宮崎県出身。日常の些細な瞬間を独特の感性で切り取り、言葉と写真で表現する作風で知られています。
代表作『つれづれノート』シリーズをはじめ、数多くのエッセイや詩集を発表してきました。その作品群に共通するのは、日常のありふれた風景や出来事の中に、人間存在の本質や生きることの意味を見出す鋭い観察眼です。
本書『スーパーマーケットでは人生を考えさせられる』も、そんな銀色さんならではの視点が光る一冊です。
誰もが日常的に訪れるスーパーマーケットという場所を通して、人間とは何か、生きるとは何かを問いかけてきます。飾らない言葉で綴られるエッセイの数々は、読む者の心に静かに、しかし確かに響いてくるものがあります。
日常の哲学装置としてのスーパーマーケット
人間とは。男とは。女とは。夫とは。妻とは。老人とは。赤ん坊とは。犬とは。働くとは。人の親切とは。生きるとは。
こんな風に問いかけられたら、多くの人は戸惑うんじゃないでしょうか。哲学書を開いたような、壮大で抽象的な問いです。でも銀色さんは、こうした根源的な問いに対する答えを、驚くべき場所で見つけているんです。
それが、スーパーマーケット。
私たちが週に何度も訪れる、あの日常の場所です。
野菜を選び、魚を眺め、チーズの値段を確認し、レジに並ぶ。そんなありふれた時間の中に、実は人生を考えさせられる無数の瞬間が潜んでいる。
銀色さんはそのことを、静かに、でも確信を持って教えてくれます。
考えてみれば、スーパーマーケットほど人間社会の縮図が凝縮された場所もないかもしれません。
経済の仕組み、人間関係、食べるという生存の根幹、そして働くということ。
これらすべてが交差する結節点なんです。
銀色さんの観察眼は、そうした表面的な風景の奥にあるものを捉えます。たとえば、チーズ売り場での小さな出来事。
家に帰ってサイズを見ると、7214円あった。あと2円あれば払えたのに。残念。あの、桜島産でちょっと気に入っていたんだけどなあ。それも家に気に入ればよかった……。そのチーズをさっそく食べてみた。あんまり好きな味じゃなかった。まずまず悔やむ。
この何気ない一節に、私たちの日常がありありと浮かび上がってきませんか。
お金と欲望と選択と、そして小さな後悔。人生の縮図がここにあるんです。
平等化する場所、剥き出しになる人間性
スーパーマーケットには、不思議な力があると思うんです。どんな人でも、そこでは等身大にならざるを得ない。取り繕うことができない場所なんですね。
人間は、生きているというあるあるだけで、今この時、目の前のことという実感でしかない。何をしているのかなんていうことは、やっぱり平等さを感じる。
銀色さんのこの言葉に、深く頷いてしまいます。オフィスでは役職があり、社会では立場があり、家庭では役割がある。でも、スーパーマーケットでは、誰もがただの「買い物をする人」なんです。
人けのない一角で、清楚なワンピースを着た若い女性が品物を見ている。それはには「買って、買って」と号泣している3歳ぐらいの男の子。
どこでも聞く母親とのバトルがダメと言われているようだ。まったく無視して、受け付けないお母さん。「買って、買って」と泣き続ける男の子。私の前に着々と、他のお客さんにうるさいから、すぐ目の前のテラスにでも連れて行ってくれればいいのに。清楚なお母さん、無視を決め込んでる。
鮮魚売り場で男性が買い物をしている。野菜売り場では奥さんが選んでいる。そして子供が泣き叫んでいる。そこに上下も貴賤もありません。ただ、今日の夕食のために、あるいは生活のために、必要なものを選んでいる人がいるだけです。
この平等さは、人間の素を引き出します。カゴの取り合いのエピソードが、それを象徴的に示しているんじゃないでしょうか。レジの列を選ぶときの瞬時の判断。誰が早く通過できるか。そのために行動する。スーパーマーケットは、そんな原始的な戦いの場でもあるんですね。
でも、この戦いは決して殺伐としたものじゃありません。むしろ、ここには妙な親しみがある。同じ土俵で、同じルールで、みんなが日常を生きている実感があるからです。
イチゴの色や食感、チーズの個数や匂い。銀色さんは細部にこだわります。食べ物についての考察は、単なる好みの問題を超えて、自分という存在を確認する行為になっているんです。
食べることは、生きることそのものです。
何を選び、何を買い、何を食べるか。
その連続が人生を形作っていく。スーパーマーケットは、そんな選択の連続を可視化する場所なんですね。
働く人々、そして感覚の自由
スーパーマーケットには、買い物をする人だけがいるわけじゃありません。
そこで働く人々がいます。銀色さんの視線は、当然そこにも向けられます。
鮮魚売り場で魚を並べる人。野菜売り場で品出しをする人。レジで会計をする人。
彼らもまた、この日常の結節点を構成する重要な要素です。
働く中で、私たちは自分を見失うことがあります。
ルーティンの中で、「今ここ」の実感が薄れていく。
でも銀色さんは、そんな中でも心の自由を保つ方法を見出しているんです。
日常の些細な瞬間に、理屈を超えた心の動きが生まれる。意味のない、でも確かに存在する心の躍動。それは、システマティックな社会の中で、人間性を保つための小さな抵抗かもしれません。
スーパーマーケットでの買い物も、同じような自由を含んでいるんじゃないでしょうか。決められた棚から選ぶという制約の中で、でも何を選ぶかは自分次第。その小さな自由の積み重ねが、生きている実感を生み出していきます。
以下のエピソードも、そんな自由のひとつですね。
私の好きなもの、それは肉を包む油紙。
肉のコーナーには、冷蔵ケースに並んだパック詰めされた肉と、口頭で何グラムと告げて量り売りしてもらう肉と、両方ある。前のお客さんがパック詰めの肉を買うのだけど、たまに気が向くと量り売りの方へ行く。
そこで肉を包んでいる油紙が大好き。その肉が包まれている油の匂いである。シールでパッと留められる。それを家でほどいて、カサカサ感を味わう。この片面カサカサ、片面ツルツルの合理的で高貴な紙がたまらない。
包装紙の匂いやパラフィンのツヤと手触り。これらの感覚的な好みは、誰に強制されるものでもありません。ただ自分が好きだから、そこに惹かれていく。そして、ささやかな喜びを感じる。
こうした個人的な好みや感覚を大切にすることは、実は生きる上でとても重要なことなんだと思います。効率や合理性だけで動いているわけじゃない。
私たちには、理屈を超えた感覚や好みがあって、それが人生を豊かにしているんだと思います。
そういえば、地域で輝く小売店に関する本でこちら「【おかねとは、何か!?】山の上のパン屋に人が集まるわけ|平田はる香」大変、おすすめです。

まとめ
- 日常の哲学装置としてのスーパーマーケット――そのありふれた日常の場所に、人間存在の本質を問う哲学的な問いが潜んでいるのです。
- 平等化する場所、剥き出しになる人間性――プリミティブな現場は、人間の素を引き出します。
- 働く人々、そして感覚の自由――理屈を超えた感覚や好みがあって、それが人生を豊かにしている。そんな現場がスーパーにはたくさんあります。
