日常を生きるという修行を!?『菜根譚コンプリート:本質を捉える「一文超訳」』野中根太郎

『菜根譚コンプリート:本質を捉える「一文超訳」』野中根太郎の書影と手描きアイキャッチ
  • あなたは、「修行」と聞いて何を想像しますか?山にこもって座禅を組むこと?厳しい戒律を守ること?日常から離れた特別な場所で、特別なことをすること?
  • 実は、菜根譚はまったく違うことを教えてくれるんです。
  • 本書は、野中根太郎さんによる「一文超訳」という独自の手法で、菜根譚の本質を現代に蘇らせています。現代語訳、書き下し文、原文に加えて、各章の核心を一文で捉えることで、古典初心者でも深い知恵にアクセスできるようになりました。
  • 本書を通じて、私が最も心に響いたのは、「日常の中で軽やかに、楽しく生きる」という視点です。特別な修行も、厳しい戒律も要らない。家庭や職場という日常の中にこそ、最高の修行の場がある。

野中根太郎さんは、早稲田大学卒業後、海外ビジネスに携わった経験を持つ翻訳家・出版プロデューサーです。

海外で活動する中で、日本および日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛されているという実感を得たことが、古典の翻訳と出版企画に力を注ぐきっかけとなりました。

野中さんの特筆すべき功績は、古典を現代に蘇らせる独自のアプローチにあります。

「一文超訳」という手法を用いることで、古典の本質を一文で捉え、読者の理解を飛躍的に向上させることに成功しています。

『論語コンプリート』『孫子コンプリート』『老子コンプリート』など、「コンプリートシリーズ」として数々のベストセラーを世に送り出してきました。

これらの作品では、現代語訳、書き下し文、原文に加えて、「一文超訳」を併記することで、古典初心者から研究者まで幅広い読者層に支持されています。

野中さんは単なる翻訳者ではなく、古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップしながら、日本の古典文化を現代に活かす橋渡し役を担っています。

本書『菜根譚コンプリート』もまた、約400年前に中国で誕生し、むしろ日本で愛されてきたこの処世の書を、現代人が実践的に活用できる形で提供する意欲作となっています。

前回の投稿はこちら「生きる軸となりうるもの『菜根譚コンプリート:本質を捉える「一文超訳」』野中根太郎」をぜひご覧ください。

特別な修行は要らない——日常こそが道場

私たちは、つい「何か特別なことをしなければ」と考えてしまいがちです。

自己啓発セミナーに参加したり、瞑想のリトリートに行ったり、資格を取得したり。

もちろん、それらも価値があることです。

でも、菜根譚は教えてくれます。

本当の修行は、もっと身近なところにあるんだと。

「日常の家庭生活が一番の修業の場。家庭のなかには一個のまことの仏がおられ、日常の生活のなかには一種のまことの道が存在している」

これは衝撃的な視点だと思います。

家庭という、最も日常的で、最も身近な場所。

そこに「まことの仏」がいて、「まことの道」が存在しているというんです。

続けて、こう書かれています。

「それは俗世間にあって、世間を離れることなく、火宅(煩悩の世界)を離れることなく仲良くし、にぎやかな態度で接し、家族みんなが心と体を一つにとげ合わせて暮らしていくことができれば、意を調えた心を内観したりするという難しい修行や、きょうも何万倍もまさっているからである」

つまり、世間を離れて静かに瞑想するより、家族とにぎやかに暮らす方が、はるかに価値のある修行だというんです。

これは現代人にとって、本当に励みになる言葉だと思います。

私たちの多くは、仕事と家庭の両立に追われ、日々のルーティンに疲れています。

「こんな日常でいいのだろうか」「もっと特別なことをすべきじゃないか」と悩むこともあるでしょう。

でも、菜根譚は言います。

その日常こそが、最高の修行の場なんだと。

ただし、ここで重要なのは、単に日常を過ごせばいいというわけではないことです。

菜根譚が強調するのは、「静かな境地のなかで活力を失ってはならない」という点なんです。

「静かな境地のなかにいて、その上で活力を失ってしまってはいけない。心境としては、雲間に光る稲妻や風前のともしびのように危うい」

静かさを求めすぎると、火が消えた灰のように、枯れた大木のようになってしまう。

「これに対し、静かさを愛しすぎる者は、あたかも火が消えて冷たくなってしまった灰のようであり、枯れしぼんだ大木のようでもある」

じゃあ、どうすればいいのか。

「生気が留まっているように見える水のような静かな境地のなかで、雷が飛び魚が躍るように顕れる生命と活動力をもちあわせるのが、本当に道を修得した人の姿である」

これが素晴らしい表現だと思います。

静かな水のようでいながら、その中に雷が飛び、魚が躍る。

つまり、穏やかさと活力、静けさと躍動感の両方を持つこと。

これこそが、日常という修行の場で目指すべき姿なんです。

仕事でも同じことが言えます。

「何事にも気を使いながら仕事に励むのは良いことだが、それも度をすぎると、楽しみを感じなくなり喜びもなくなって苦しくなる」

真面目に働くことは大切です。

でも、度を過ぎると、楽しみを失ってしまう。

一方で、こうも言われています。

「また、淡白で無欲な態度は高尚ではあるが、それも度をすぎて枯れすぎると、人の為めそして世のなかの為めになる仕事となりにくい」

つまり、熱意を持ちながらも楽しむこと。

真面目すぎず、かといって冷め切らず。

このバランスこそが、日常を最高の修行の場にする秘訣なんだと思います。

家庭という最高の修行の場——怒らず、温かく、軽やかに

では、家庭という修行の場で、具体的にどう振る舞えばいいのでしょうか。

菜根譚は、家庭のあり方について、驚くほど実践的な知恵を与えてくれます。

「家庭の良さはなごやかで温かいところにある。家族の者が過ちを犯したとき、声を荒げて激しく怒るべきではない」

これは、子育て中の親にとって、とても重要な教えだと思います。

子どもが失敗したとき、つい感情的になって叱ってしまう。

でも、それは家庭の温かさを失わせてしまうんです。

じゃあ、どうすればいいのか。

「かといって知らんぷりすぎるのもよくない。その場であれこれ他のことにかこつけて戒めるのが良い。それでもわかってくれないときには、時間をおいて別の機会に注意を促したい」

直接的に叱らず、別のことに関連づけて伝える。

それでもダメなら、時間をおいて改めて話す。

この間接的で、時間を置くアプローチが、とても優しいと思います。

そして、こんな美しい比喩が続きます。

「ちょうど春の風が静かについた大地を溶かし、大地に活力を与え、万物が永を浴びすようにするのだ。これが家庭での良い形(模範)であろう」

春の風のように。

静かに、でも確実に、大地を溶かし、活力を与える。

これこそが、家庭での理想的なコミュニケーションなんです。

声を荒げて激しく怒るのは、冬の嵐のようなもの。

一時的に相手を動かせるかもしれないけれど、心を閉ざしてしまう。

でも、春の風のように接すれば、相手の心が自然と開いていくんです。

そして、家庭での修行は、単なる忍耐ではありません。

楽しさと喜びを持つことが、実は最も重要なんです。

「楽しく喜ぶ気持ちを持って幸福を呼び込もう。幸福というのは、こちらから求めて得られるものではない。ただ、日ごろから楽しく喜ぶ気持ちを養いうつとする幸福を招きよせるようにしておきたい」

これは深い洞察だと思います。

幸福は追い求めても得られない。

でも、楽しく喜ぶ気持ちを持っていれば、幸福の方から近づいてくる。

逆に、不幸についても同じことが言えます。

「不幸は、こちらで避けようとしても避けられるものではない。ただ、厳粛立って人を責め咎めることをやめようとする不幸を追い払うようにし、不幸から遠ざかるようにしておきたい」

不幸を避けようとして神経質になっても、避けられるものではない。

でも、人を責めたり咎めたりすることをやめれば、不幸は遠ざかっていく。

これは家庭運営において、極めて実践的なアドバイスです。

家族の誰かがミスをしたとき、責めるのではなく、温かく受け止める。

そうすることで、家庭の雰囲気が良くなり、結果的に不幸が遠ざかる。

そして、菜根譚は「ほどほど」のバランス感覚を強調します。

「心が細やかな人は、自分についても手厚く考えすぎてしまうが、他人のためにはかなり手薄にしすぎてしまう。万事において考えすぎないがある」

細やかすぎると、自分のことばかり考えて、他人への配慮が薄くなる。

「これに対して心があっさりしている大ざっぱな人は、自分についてもあっさりとしていい加減になってしまうが、他人のことでもあっさりしすぎていい加減になりやすい」

逆に大雑把すぎると、自分にも他人にも無責任になる。

だから、こう結論づけられています。

「このように、万事においてあっさりという加減となりやすい。だから君子の理想と徳性は、こまやかで繊細すぎることもない、ほど良いところを目指すべきである」

細やか過ぎず、大雑把過ぎず。

この「ほど良いところ」を見つけることが、家庭での修行なんです。

さらに、人格と利他についても、重要な教えがあります。

「自分の人格を磨き、他人の為めに尽くす人は、すでに立派な政治家である。一般の人でも、徳を積み、人格を磨いて人の為めに尽くせば、それはもう立派な仕事をしているのである」

家庭で人格を磨き、家族のために尽くす。

それだけで、すでに「立派な仕事」をしているんです。

逆に、こうも言われています。

「たとえ地位高官であっても、権限を私欲に利用し、人々に恩を売ってはぶをきかせようとする者は、地位はあっても只の俗人である」

どんなに社会的地位が高くても、私欲で動いていれば俗人。

でも、一般の人でも、家庭で徳を積み、家族のために尽くせば、それは立派な仕事。

この価値観の転換が、現代社会で失われがちな視点だと思います。

私たちはつい、社会的な成功や地位を追い求めてしまいます。

でも、本当に大切なのは、日々の家庭生活の中で、どれだけ温かく、軽やかに、楽しく生きているか。

そして、家族のために、どれだけ尽くしているか。

そこにこそ、最高の修行があり、最高の人生があるんです。

順境も逆境も同じように——境地に達する生き方

さて、日常を修行の場とし、家庭で温かく軽やかに生きる。

その先に待っているのが、「境地に達する」という段階です。

菜根譚が最終的に目指すのは、単なる処世術ではありません。

それは、人生の本質を悟り、どんな状況でも動じない心の境地に達することなんです。

「人も我も同じ、動も静も忘れるという境地を目指す。静かなことを好み騒がしいことを嫌う者は、人を避けることで静けさを求めようとする」

私たちは、静かな環境を好みます。

騒がしい場所を避け、一人になれる時間を求める。

それは自然なことです。

でも、菜根譚は言います。

「しかし、それは静かな場所に頼っている限りでの、られた心の表れであり、静けさに執着することが、すでに心を動かすもとになっているのがわかっていない」

静けさに執着している時点で、もう心は乱れているんです。

「静かな場所がないと落ち着けない」というのは、実は不自由な状態なんですね。

だから、こう結論づけられます。

「これでは、人も我も同じ、動も静も忘れるという境地に到達することはできない」

本当の境地とは、静かでも騒がしくても関係ない状態。

自分も他人も、動きも静けさも、すべてを同じように受け止められる心の状態。

これこそが、菜根譚が目指す最終到達点なんです。

そして、この境地は、順境と逆境の捉え方にも表れます。

「順境も逆境も同じに考えて生きる。子どもが生まれたとき、自分より賢い者に育つと考えると、泥棒が狙う。このように、どんな喜びであろうとも心配の種はある」

子どもが生まれるという喜びの中にも、心配の種がある。

賢く育てば、それが狙われるかもしれない。

つまり、順境の中には必ず逆境の種が潜んでいるんです。

でも、逆もまた真なんです。

「また、貧しいと節約する、病気になると体に気をつけるようになる、こんな心配事でも喜びになる種はある」

貧しさは節約の知恵を生み、病気は健康への意識を高める。

逆境の中にも、喜びの種がある。

だから、こう結論づけられています。

「こうしてみると、人生の達人というのは、順境も逆境も同じように見て、喜びも悲しみも同じように見て、ただひたすら道を楽しんで、日々心を安らかにし続けているのである」

これが、菜根譚が示す最高の境地です。

順境でも浮かれず、逆境でも落ち込まず。

喜びも悲しみも、同じように受け止める。

そして、ただひたすら道を楽しむ。

この「ただひたすら道を楽しむ」という表現が、私は特に好きなんです。

深刻になりすぎず、でも真剣に。

重くなりすぎず、でもいい加減でもなく。

ただ、道を楽しむ。

これこそが、軽やかに生きるということなんだと思います。

現代社会は、常に私たちに選択を迫ります。

成功か失敗か。
昇進か左遷か。
幸福か不幸か。

でも、菜根譚は教えてくれます。

その二分法自体が、心を乱す原因なんだと。

成功の中にも失敗の種があり、失敗の中にも成功の種がある。
幸福の中にも不幸の種があり、不幸の中にも幸福の種がある。

だから、どちらも同じように受け止めればいい。

そして、ただひたすら、自分の道を楽しめばいい。

この視点を持つことができれば、日々のストレスは大きく減ると思います。

昇進できなかったとしても、それは新しい学びの機会かもしれない。プロジェクトが失敗したとしても、それは次の成功への準備期間かもしれない。家族との関係がうまくいかないときも、それは互いを理解し合うチャンスかもしれない。

すべてを、フラットに、軽やかに受け止める。

これが、境地に達するということなんです。

そして、ここで大切なのは、この境地は特別な人だけが達するものではないということです。

山にこもって修行する必要もなければ、厳しい戒律を守る必要もない。

ただ、日常の中で、家庭という修行の場で、温かく、軽やかに、楽しく生きる。

その積み重ねが、やがて境地へと導いてくれるんです。

菜根譚が約400年前に書かれ、今もなお日本で愛され続けているのは、この普遍性にあると思います。

時代が変わっても、技術が進歩しても、人間の本質は変わりません。

どう生きるべきか。
何を大切にすべきか。
どう心の平安を保つべきか。

この根本的な問いに対して、菜根譚は明確な答えを与えてくれます。

特別なことは要らない。

日常の中で、家庭という場で、温かく、軽やかに、楽しく生きる。

そして、順境も逆境も同じように受け止めながら、ただひたすら道を楽しむ。

これこそが、菜根譚が示す、最高の生き方なんです。

野中根太郎さんの「一文超訳」によって、この深い知恵が、驚くほどわかりやすく、実践的に理解できるようになりました。

現代語訳、書き下し文、原文、そして一文超訳という多層的なアプローチによって、古典の本質が私たちの日常生活に直接活かせる形で提示されているんです。

日常こそが最高の修行の場。

家庭こそが最高の道場。

そして、軽やかに、楽しく生きることこそが、最高の境地への道。

この視点を持つことで、明日からの日常が、まったく違って見えてくるはずです。

まとめ

  • 特別な修行は要らない——日常こそが道場――日常こそが、最高の修行の場であり、人格を磨くことを、穏やかさと活力、静けさと躍動感の両方を持つなかで、目指してしていきましょう。
  • 家庭という最高の修行の場——怒らず、温かく、軽やかに――家庭での修行は、単なる忍耐ではありません。楽しさと喜びを持つことが、実は最も重要です。
  • 順境も逆境も同じように——境地に達する生き方――
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