- どうしたら、よき人生を歩んでいくことができるでしょうか。
- 実は、相手を“想ってみる”ということもとても大切なことかもしれません。
- なぜなら、それは、結果的に自らの生き方を「問う」ことに繋がるからです。
- 本書は、世阿弥『風姿花伝』を通じて、いかに他者との関係性の中に生きるのかを知る1冊です。
- よりよく生きることについて、感じ、行動に移すきっかけを得ることができます。
変化の時代をよりよく生きるには?
1949年、東京生まれ。作家・書誌学者として知られる林望さんは、日本の古典文学と書物の世界に深く根ざしつつ、エッセイ、小説、詩、さらには能の評論まで幅広く活躍されている才人です。
慶應義塾大学大学院博士課程を修了後、ケンブリッジ大学客員教授や東京藝術大学助教授などを歴任。専門は日本書誌学と国文学。古典の世界を研究しながらも、その成果を現代の言葉で軽やかに表現する力に定評があります。
代表作『イギリスはおいしい』(文春文庫)では日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し、また書誌学の研究書『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』では国際交流奨励賞を受賞するなど、学術とエッセイの両面で高い評価を得ています。
エッセイ『林望のイギリス観察辞典』(平凡社)では講談社エッセイ賞にも輝き、ユーモアと知性に満ちた語り口で多くの読者を魅了してきました。
まさに“知の越境者”ともいえる林望さんが、本書では能の根本思想にして芸道書の金字塔『風姿花伝』を、読みやすく、かつ本質を失わずに案内してくれます。
『風姿花伝』は、室町時代に活躍した能楽師・世阿弥によって書かれた、芸道の奥義を綴った書です。全七巻から成り、観阿弥を父に持ち、幼い頃から芸の道に生きた世阿弥が、芸の本質、修練の道筋、そして人の心を打つとはどういうことかを、深く静かに、しかし極めて論理的に語りかけてきます。
そこには、単なる舞台芸術の技法を超えて、人間がいかに成長し、いかに他者と向き合うかという、生き方そのものの叡智が息づいています。
有名な言葉「初心忘るべからず」は、もはや日本語の慣用句として定着していますが、その本来の意味をきちんと理解している人は少ないかもしれません。
『風姿花伝』とは、単なる「能の教本」ではなく、人生の成熟と再生の書とも言えるのです。
時代は、変化のスピードを増し、確実性の少ない「VUCA」と呼ばれる時代へと突入しています。そんな時代にこそ、自分自身の軸を問い直し、成長と衰退を繰り返す人間という存在を深く見つめる視点が必要とされているのではないでしょうか。
芸は人生を映し、人生は芸のように練り上げていくものだとしたら――
『風姿花伝』は、経営者やリーダー、そして人生の探求者にとって、まさに「行く先を照らす灯火」となる一冊です。
林望さんによる『すらすら読める風姿花伝』は、そんな普遍の古典を、現代の言葉で、読みやすく解きほぐしてくれます。難解であるがゆえに敬遠されがちな原典のハードルを下げつつ、その奥にある深い思索へと優しく誘ってくれるのです。
所詮そういう舞台は、主客の貴人がたのお気に召せばそれでよいのであるから、このことがもっとも肝要なる心得である。
「観客が満足すれば、それでよい。」
この一文に、あなたはどんな印象を持つでしょうか?
媚びているように聞こえるでしょうか? それとも、プロの矜持を感じるでしょうか?
世阿弥が語るこの言葉には、芸とは自分一人で完結するものではなく、常に“見る者”との関係性の中で成り立つという、厳しくも本質的な哲学が流れています。
現代のビジネスや創造の現場でも、「自己表現」と「市場価値」のバランスに悩む場面は少なくありません。
自分がやりたいことと、相手が求めること――その間で揺れるすべての表現者、経営者にとって、この世阿弥の言葉は一つのヒントとなるのではないでしょうか。
それは、他者にすべてを委ねることでも、ただ迎合することでもない。
むしろ、他者の心に咲く“花”をどう咲かせるかという覚悟を持ち続けることなのです。
自己と他者は対立項ではなく、響き合う存在。
だからこそ、「お気に召せばそれでよい」という潔さの裏に、自分を空っぽにして他者と向き合う、深い内的成熟が必要になるのです。
誰にもが学びの機会に接している!?
観阿弥・世阿弥が生きた時代は、南北朝の動乱から室町幕府への政権交代、そして足利義満の登場といった、まさに変化のただなか。
今で言えば“VUCA”のような不確実性の高い時代だったと言えるでしょう。
そんな中で彼らが選んだのは、「自分が何をしたいか」ではなく、「誰が見ているか」「その人にどう届くか」という、他者視点を研ぎ澄ませる戦略でした。
これは単なるおもねりではありません。
むしろ、変化の激しい時代において、“花”を咲かせ続けるために必要な「関係性の洞察力」だったのです。
現代のVUCA時代においても、私たちは次の問いを突きつけられています。
「あなたの価値は、誰との関係性の中で立ち上がるのか?」
自己完結ではなく、他者との共振の中でしか見出せない価値。
だからこそ、世阿弥は「主客の貴人がたのお気に召せばそれでよい」と言い切ったのです。
『風姿花伝』には、こんな趣旨の記述があります。
「下手に見えても学ぶべきところはある。上手であっても油断はならない。」
つまり、シテ(主役)を務める者は、たとえ自身が経験豊富であっても、他の演者から学び続ける姿勢を持ち続けなければならないというのです。
ここに浮かび上がるのは、芸とは「孤高の完成」ではなく、絶え間ない関係性の中で磨かれていくものである、という世阿弥の思想です。
たとえば、共演者が下手だったとしても、その拙さが舞台全体に与える空気感、そのズレにどう合わせるかという「関係性の稽古」がそこにある。
逆に、上手な者の技を見て、それを自分の内にどう取り込むかという「模倣と工夫」の連鎖がある。
これこそ、自他の境界を開き、舞台全体を感受する力。
いわば、他者の存在を通して自らを磨く“共鳴の構造”なのです。
成長とは!?
この視点は、現代の私たちにもそのまま当てはまります。
ビジネスの現場でも、つい「自分の専門」「自分の持ち場」に閉じこもりがちですが、変化の時代には、チームや他者との“学び合い”を止めない姿勢こそが重要です。
上手は下手の手本、下手は上手の手本なり。
上司から学ぶこともあれば、後輩の何気ない行動に学ぶこともある。
競合他社の動きや、異業種の事例からも、自らの立ち位置が照らし出される。
世阿弥が「芸は互いの間に生まれる」と見抜いたように、成長は、他者との関係の中にこそ潜んでいるのではないでしょうか。
世阿弥が『風姿花伝』と名づけた理由――
それは、「花」とは心から心へ、言葉を超えて伝わるものであり、芸の本質がそこにあると見抜いたからです。
この「花」とは、単なる技巧や演出のことではありません。
むしろ、「面白い」という感動を生む力、そしてそれを他者との関係の中で発見し続ける能力のことです。
たとえば、「あるいはあの人の狭い芸域に拘泥するがゆえに…」「あるいは不器用で巧く出来ぬがゆえに…」という一文にあるように、上手・下手やスタイルの違いを問わず、他者のやり方に学び、取り入れる柔軟さ――つまりは広く芸を取り込む姿勢が、「花」を咲かせる条件とされています。
世阿弥はこう言います。
これに似たり、実は嫌っているのではなくて出来ぬゆえ、勝手に違う芸風をつやめくように思っているのである。
つまり、違いを拒むのではなく、「違いの中に可能性を見出すこと」こそが、“花”を生む秘訣なのです。
ここまで読み解いてきたように、『風姿花伝』は芸の書であると同時に、関係性の書です。
見る人と演じる人、共に舞台をつくる仲間、そして未来の観客や弟子に向けて。
世阿弥は、他者とのあいだに「花」を咲かせ続けることこそが、真の名人の道であると語っています。
それは、現代の私たちにとっても同じです。
自分の内に閉じこもらず、異なる他者を受け入れ、学び、変化し続けること――
「芸の道を行うとは、関係性を耕し続ける習慣を持つことなのだ」
世阿弥のまなざしは、そんな生き方そのものへと、静かに手招きしているように思えてなりません。
まとめ
- 変化の時代をよりよく生きるには?――変化を絶えず受け入れ、自らが変化していくことです。
- 誰にもが学びの機会に接している!?――芸は、生涯完成しないのです。
- 成長とは!?――それは何かを捨て、何かを得ることの過程です。