- 世阿弥は、「リーダーシップ」「人の成長」をどのように捉えたでしょうか。
- 実は、“場”にフォーカスしたことがすごいかも。
- なぜなら、“花が咲く場を整える人”こそが、真のリーダーだからです。
- 本書は、世阿弥が何百年も前に説いた、人の本質を見つめる1冊です。
- 本書を通じて、能という興行、伝統芸能の原点から、これからの時代を生きるヒントを得ます。
良きリーダーは、俯瞰する!?
前回の投稿「道を極めるとは、どういうことか!?世阿弥の人生に学ぶ『超訳 世阿弥 道を極める』森澤勇司」に続き今回もこちらの1冊『超訳 世阿弥』のレビューをさせていただきます。
前回は世阿弥の人物像に少し触れながら、能という芸能を進化させ、そして、その考え方を後世まで受け継がれた概念をいかに作れたのか?について触れてきました。
観阿弥が実践した革新的な舞台芸術を、息子・世阿弥が理論化・言語化することで、“芸”は単なる技術や家業の枠を超え、思想として後世に残るものとなりました。特に、観客との関係性を重視し、感動とはどこから生まれるかという視点を持ち込んだ点が、能を「内輪の芸」から「社会的な芸」へと変貌させた転換点でした。
また、「初心忘るべからず」という言葉に込められた深意にも触れ、人生の中で何度も訪れる“新たな初心”の存在に光を当てました。世阿弥の言葉は、人生100年時代を生きる私たちにとって、年齢や立場を超えて何度でも自分を立て直せる希望のメッセージでもあります。
一度限りの“初心”ではなく、節目ごとに訪れる“時々の初心”を忘れずに歩み続ける──。それは、芸の道だけでなく、仕事や人生のあらゆる場面に通じる普遍的な教えではないでしょうか。
今回の投稿では、さらに深ぼって、世阿弥の思想からリーダーシップや人間の成長の本質を考えてみたいと思います。
世阿弥の時代において、能という興行は“人気”で選ばれる競争環境にさらされました。
世阿弥が活躍した室町時代、能はもはや閉ざされた家元芸ではなく、観客=パトロンから“選ばれる”興行芸能として競争の渦中にありました。
足利義満の庇護を受けたとはいえ、その座が永続的に保証されていたわけではありません。実際、世阿弥は後年に失脚し、佐渡に流されるという憂き目にも遭っています。つまり彼は、絶えず人気と注目を集めなければ座の命運が立ち行かないという厳しい環境に身を置いていたのです。
このような中で世阿弥は、単なる芸人ではなく、一座の座長=リーダーとしての顔を持っていました。つまり、自身が主役として舞うだけでなく、座全体のブランド価値をどう保ち、どう発展させていくかという経営的視点が常に求められたのです。
世阿弥の伝書には、興行を成功に導くための戦略的な視点が多く見られます。
たとえば、『申楽談儀』では、観客の目線に立ち、どの演目をどの順番で出すべきか、どの役者にどの役を割り当てるかといった、興行の設計思想が語られています。これはまさに、演目プロデューサーとしての側面です。
また、『風姿花伝』においては、若手の役者をどのように育てるか、どうすれば「時分の花」から「まことの花」へと導けるかといった、人材育成論が展開されています。自身の名声に依存するのではなく、未来の座を担う人材をいかに育て、舞台に立たせるかを重視していたのです。
さらに、「他流の芸を学ぶこと」や「流行に合わせて芸を微調整すること」など、柔軟で現実的なマーケティング感覚も記されています。これらはすべて、「選ばれる芸」としての能を生き残らせるための工夫でした。
世阿弥は、“花”という芸術哲学を体現する存在でありながら、同時に人気商売の厳しさも理解する実務家でもありました。
能がただの伝統芸能で終わらなかったのは、彼が「観られること」を徹底的に意識し続けたからです。演者個人としてではなく、座の経営者として、全体のバランス、観客の反応、興行としての成功を俯瞰して見つめる“離見の見”を常に持っていた。
こうした多面的な視座は、今日のリーダーシップにも通じるものです。
現代の経営者やチームリーダーにも求められるのは、自分が“花”になること以上に、「花が咲く場」をどう整えるかという視点です。
世阿弥は、一座という“組織”を率いながら、「自分一人では芸は成り立たない」「観客に選ばれるか否かで全てが決まる」という厳しい現実と向き合い続けました。
全体の構成を知る演者は、自分の足りないところも知っているものである。
その中で、芸術と経営を両立させた稀有なリーダー像が、私たちに多くの示唆を与えてくれます。
初心の大切さとは!?
世阿弥は「初心」とは一度きりのものではなく、成長段階に応じて何度も訪れる「時々の初心」だと述べました。これは、指導や教育をする立場に立った時、「自分の現在の視点」で語るのではなく、「かつて自分が通った初心の段階」から相手に向き合うべきだという思想と響き合います。
つまり、以下のような世代別の“初心の再認識”とリーダーとしての振る舞いの変化が重要です。
若手:時分の花=「勢いある初心」
主体性や創造力はあるが、技術・知恵・調整力は未熟。
リーダーは基礎の重要性と反復の価値を語るべき段階。
指導者は、自分がこの時期に何に悩み、何を繰り返したかを思い出し、その「当時の視野」で相手を見ることが大切。
中堅:転機の初心=「壁にぶつかる初心」
成果と成長のプレッシャーの中で、自分の限界に向き合う。
リーダーは視野の広げ方や、自他のバランスの取り方を語るべき段階。
この時期の苦悩は、リーダー自身も通ったはず。今の視点でアドバイスをするのではなく、当時の「手探りの中で掴んだこと」に立ち返って語ることで、相手の“力み”が解けてくる。
ベテラン:継承と脱力の初心=「支える側の初心」
自分が主役ではなく、次を育てる役割にシフトする段階。
リーダーは力を抜く技術、観察と支援の姿勢をモデルとして示す。
無駄な力が抜けて“自然体”になっていくには、他者の初心を受け入れる包容力が求められる。
適切な対応とは、「自分の初心を記憶していること」
この一節が教えてくれるのは、「初心を忘れないこと」とは、過去の自分を引き受け、相手の現在と共鳴させることです。
現在の自分がどれだけ熟達していても、それをそのまま伝えてしまえば、初心者にとっては難解で空回りになってしまう。むしろ、自分が「できなかったころの自分」を忘れずに、その地点から語ることで、相手も自然に成長していく。
これは、まさに世阿弥の言う「時々の初心」の思想が、リーダーシップに転化された姿です。
どんなに成熟しても、「あの頃の自分」を忘れず、「その段階で何が必要だったか」を語れる人こそが、真に人を育てる存在になれる。
教育担当者は自分が今やっていることをそのまま伝えるのではなく、自分が教えている相手と同じキャリアだったときにやっていることの中で、最も大切な事柄を十分に伝える必要がある。
この考えは、ビジネス・教育・育成のどの場面においても有効です。
本当に成長を支援する人・成長する人とは!?
今度は、「成長する側の人の視点」で、世阿弥の論点を見つめてみましょう。
世阿弥は、『風姿花伝』の中で何度も「成長の本質は、自己を知ることにある」と説いています。この画像の引用では、こうした論点が丁寧に語られています。
うまい人というのは、どんなに成功していても、自分の中に未熟さや悪いところを見出そうとする心を持っている。
これは、単なる謙虚さの推奨ではありません。むしろ、自己の芸を、第三者の目で冷静に分析し続ける“構え”の重要性を説いているのです。
世阿弥の核心的な概念の一つに「離見の見」があります。
これは、演者である自分が舞台の上に立ちながら、同時に客席から自分を見るという二重の視点を持つということ。
今回の引用で語られる「自分の悪いところを見つけて改める」「他人の良いところも、悪いところも学びにする」姿勢は、まさにこの「離見の見」の精神そのものです。
特筆すべきは、良いところだけでなく、悪いところからも学ぶという発想です。
下手な人の悪いところを見て、それを自分に取り込んで良くする。
世阿弥にとって、成長とは単なる模倣や称賛の対象を増やすことではなく、観察→咀嚼→内省→実践→調整という、自己修養のサイクルを絶えず回し続けることでした。
他者の欠点すら自分の成長素材に変えるという発想は、まさに「知的成熟」の極みとも言える姿勢です。
一方で、成長が止まる人の特徴についても、世阿弥は鋭く指摘しています。
- 自分の欠点に無自覚。
- 他人の悪を見て、見下して終わる。
- 良い部分しか見ようとしない。
- 評価されることで満足してしまう。
これはまさに現代でいうところの「自己満足型リーダー」や「評価依存型パフォーマー」が陥りがちな罠であり、世阿弥の指摘は600年前の芸能者にとどまらず、今を生きる私たちにも強く響く戒めとなります。
現代に置き換えるならば、世阿弥が言う「成長する人」とはこう言えるかもしれません。
- 称賛を鵜呑みにしない人
- 比較をするのではなく、観察する人
- 悪を避けず、そこに成長の種を見る人
- 自分の“過去”と“現在”を切り離して眺められる人
このような俯瞰力を持つ人こそが、長く伸び続けるのだと、世阿弥は語っているのです。
世阿弥の思想に基づいて整理した「成長を支援する人」と「成長する人」の比較表です。それぞれの特徴を、対応する形で5つの観点にまとめました。
観点 | 成長を支援する人(指導者・教育者) | 成長する人(学び手・演者) |
---|---|---|
視座の持ち方 | 自分の「今」ではなく、相手の「当時」に立ち返って教える(=初心を思い出す) | 自分の「今」だけでなく、過去・他者からも学びを得る(=離見の見を持つ) |
伝える姿勢 | “現在の技術”を伝えるのではなく、“かつて必要だったこと”を伝える | “うまくいっている理由”ではなく、“うまくいかない原因”に目を向ける |
学びの態度 | 相手の段階に応じて、必要な種をまく | 良いところ・悪いところの両方から学ぶ(自己の未熟さを前提とする) |
成長段階の理解 | 「時々の初心」を知り、タイミングに合わせた関わりを行う | 「下手の時期」を大切にし、そこから学び取る努力を惜しまない |
自己の位置づけ | 評価される存在ではなく、“土を耕す人”として場を支える | 評価に固執せず、“育つための観察者”として自己を俯瞰する |
このように対比することで、世阿弥の思想が教えることと学ぶことの両輪であることが明確になりますね。
能という芸能を、単なる娯楽や儀式から、哲学を持つ総合芸術へと高めた世阿弥。
その功績の裏には、洗練された技術や構成力だけでなく、人の心の機微を見つめるまなざしが常にありました。
観客の心に「花」を咲かせるために、
弟子の心に「芽」を育てるために、
そして、自らの心を「磨き」続けるために──。
世阿弥は、生涯を通じて「心の動き」に敏感であり続けた人です。
だからこそ彼は、「初心忘るべからず」「離見の見」「まことの花」など、
心の成長を支える言葉を数多く遺しました。
教えるとは、技術ではなく“心を汲む”こと。
学ぶとは、知識ではなく“心を耕す”こと。
そうした世阿弥のまなざしは、
今を生きる私たちにも、変わらぬ示唆を与え続けています。
まとめ
- 良きリーダーは、俯瞰する!?――“離見の見”で、場と人を見つめる視点を持っていることです。
- 初心の大切さとは!?――教える人は、当時の初心を思い出しながら、教えられる人と共に学ぶべきなのです。
- 本当に成長を支援する人・成長する人とは!?――場とタイミングと、そして、心を大切にすることです。