- 私たちが当たり前だと思っている社会は、確かなものでしょうか。
- 実は、まったくそうではない可能性だってあったかも。
- なぜなら、カルチャーや価値観の全く異なる文化というのも事実存在するからです。
- 本書は、プナンという民族の生き方、社会の作り方に関する1冊です。
- 本書を通じて、私たちが当たり前だと思っていたことに疑いを持つ視点を得ます。

当たり前を疑うエスノグラフィーへ!?
奥野克巳(おくの・かつみ)さんは、人類学者として長年にわたり「人間とは何か」「社会とはどうあるべきか」といった根源的な問いに向き合ってきた研究者です。
立教大学異文化コミュニケーション学部教授であり、専門は文化人類学・民族誌学。
彼の研究の特徴は、ただフィールドワークをして知識を蓄えるだけでなく、「自分の常識を揺るがす」ような体験を自ら引き受けていくというスタンスにあります。
実際、本書で描かれているインドネシア・ボルネオ島のプナンの人々との交流も、単なる学術的な観察ではありません。彼は、彼らとともに森で寝起きし、移動し、狩りをし、時には一緒に黙って過ごすという、まさに“暮らし”そのものを共にしてきたのです。
プナン(Punan)は、東南アジアの熱帯雨林地帯に住む狩猟採集民の一部族で、ボルネオ島(カリマンタン)の森林で遊動生活を送っています。
現代の世界においても、定住せず、貨幣経済や制度的国家に組み込まれない暮らしを続けている稀有な存在です。
彼らの暮らしぶりは、私たちの目から見れば、非常に“自由”に映ります。
たとえば、誰かが森で採ってきた果物は、分け隔てなくみんなで食べる。
家族という枠組みにも強い執着はなく、誰の子どもでも、誰かが面倒を見る。
驚くべきことに、プナンには「所有」の概念が希薄です。
自分のモノ、あなたのモノという区別をあまり重要視せず、「持っている者が、持たざる者に自然と分け与える」――それが社会の規範として機能しています。
そして何より印象的なのが、冒頭でも述べた「ありがとう」や「ごめんなさい」を口にしないという文化。
それは決して無礼さや冷たさからくるものではなく、「言葉で相手を縛らない」「感謝や謝罪は、行動や関係性の中で自然に表れるもの」と考えるからです。
プナンは、日本を含む現代社会で営まれている暮らしとは「別の生の可能性」を私たちに示してくれるように思われる。
奥野さんは、プナンの暮らしを“過去の遺物”として扱うのではなく、私たちが「未来に学ぶべき知恵」として捉え直します。
プナンの世界観は、「人間中心」でも「市場中心」でもありません。むしろ、人も自然の一部として溶け合うように共存しているのです。
このようなプナンの生き方に出会うことで、奥野さんは私たちが「当たり前」としてきた“社会”や“人間関係”を根本から問い直す視点を獲得していきます。
プナンには、何らかの職業について、その仕事の中に、やりがいや生きがいを見出す、あるいは、成功や失敗を経験しながら生きていくという考え方がありません。
ただ、生きるために、生き抜くために、食べるのです。空腹をしのぐために、食べ物を探しに行く、食べ物を得たら調理して食べて、あとはなんとなしに1日を過ごします。
プナンの生き方は、これこれを成し遂げるために生きるとか、世の中をよくするために生きるとか、貧困を撲滅するために生きるとか……、そんな風に生きることの中に意味を見出すものではない。
このような価値観の背景には、彼らが農耕や牧畜を行わない狩猟採集民であることが大きく関係しています。
農耕社会は、未来を想定し、計画的に生産する必要があります。種をまき、成長を待ち、収穫し、貯蔵する。つまり、時間が“直線的”に進んでいく感覚があり、「今は苦しくても、将来のために頑張る」という思想が自然と生まれます。
一方、狩猟採集社会では、未来に向けて蓄える必要がありません。今日食べるものは、今日手に入れればいい。
それゆえ、「目的達成のために今を犠牲にする」といった思考も、「人生に意味を与える」という強迫的な発想も必要ないのです。
言い換えれば、プナンは「意味から解放されている」社会。
私たちが「生きがい」や「社会貢献」によって自分の価値を証明しようとするのに対し、彼らは、ただ生きることそのものを、誰に説明することもなく受け入れているのです。
人類は、そのようにして、高次で巨大な「外臓」システムのようなものをつくり上げてきた。
奥野克巳さんは、プナンの生き方と私たちの文明的生活を対比させるにあたり、「内臓と外臓」という比喩的な概念を紹介しています。
この言葉は、人類学者・芸術人類学者の石倉敏明さんが提唱した造語です。
「内臓=身体に内在する機能」、「外臓=社会や制度に外在化された機能」という枠組みは、私たちが文明化の過程でどのように身体の一部を“委譲”してきたかを示すものです。
かつて人類は、自分の手で食べ物を採り、自分の足で移動し、自分の感覚で人間関係を築いていました。
しかし、農耕、都市、技術、制度の発達とともに、それらの営みを「外臓」として社会や道具に任せるようになった。
「人類は、そのようにして、高次で巨大な『外臓』システムのようなものをつくり上げてきた。」
と奥野さんは語ります。
それは単なる道具の発明ではなく、人間の“生きる”という営みを、身体から遠ざけ、他者やシステムに委ねてきたプロセスそのものだと見ることができるのです。
この視点から見ると、プナンの人々の暮らしは、まさに外臓化される以前の、「内臓的」な人間の在り方といえます。
彼らは、自らの身体感覚と自然との直接的な関係の中で生きています。
道具や制度によって世界を操作するのではなく、森と対話し、身体で判断し、必要なときに必要なものだけを得て、生き延びていく。
石倉さんが示唆したこの「外臓」という概念が、奥野さんの人類学的観察と交差することで、プナンの生き方は単なるエスノグラフィーを超え、「文明を問い直す鏡」として立ち現れてくるのです。
反省とはなにか!?
プナンの人々は、「反省する」ということをしません。
それは、いい加減であるとか、無責任であるということではありません。
むしろ、「何が正解か」を事前に決めつけすぎない柔らかさ、そして「どう転んでもそれがその時の最善だった」と受け入れる包容力のようなものが、彼らの生き方には宿っています。
プナンには、私たちほどの時系列の感覚を持たず、振り返ることをしません。
昨日どうだったか、あの時もっとこうしておけばよかったか――そうした反省的な視点よりも、「今ここで、何が起きているか」に基づいて行動することを重視しています。
奥野さんは、これを「状況主義的」と呼びます。
つまり、その場その場の状況を身体感覚で捉え、誰かが困っていれば自然に助け、誰かが得たものを自然に分ける。
すべてが流動的で、一貫したルールや信念で行動を縛ることはしません。
そして何より、彼らは「すべてがうまくいくわけではない」ということを、あらかじめ知っています。
獲物がとれない日もある。食料が足りない時もある。そんな時には、黙って過ごし、空腹とともにやり過ごす。
「なぜ失敗したのか」「どう改善するべきか」といった問いは、そもそも生じないのです。
それは、ある意味で「くよくよしない」強さであり、過度に自責しない、過去に縛られない生き方でもあります。
翻って、人が反省するとはいったいどういうことなのか。こういう問いが、解けない謎として残り続けている。
それは、私たちが未来をよくするために、過去を材料として扱っているからではないでしょうか。
現代社会では、「人生はプロジェクトである」と見なされがちです。
そこでは、過去を分析し、現在を改善し、より良い未来を構築するという「時間の直線性」が前提になっています。
反省は、この線の中で「過去の失敗を振り返ることで、次はもっとよくできる」という合理的思考の一部です。
教育も、ビジネスも、人間関係さえも、「PDCA」のように改善と成長のループで捉えられる。
それが“良いこと”とされているのです。
また、私たちは「自分という存在を固定化しようとする社会」に生きていると、言うことができるかもしれません。
履歴書、評価制度、SNSのプロフィール――どれも、自分がどんな存在で、何をして、どのように変わってきたのかを語ることが求められます。
その時に、「反省」は、自分のストーリーに説得力を与える要素となるのです。
「あの時失敗したけれど、学んで成長しました」
この物語が、私たちの価値を証明する鍵になります。
もちろん、反省は重要な営みです。
自分の過ちを振り返ることで、誰かを傷つけたことに気づき、より良い関係を築こうとする。
社会的な責任や倫理が成立するのも、反省という機能があるからです。
しかし一方で、反省が過度になると、「自分の過去に縛られてしまう」こともあります。
「なぜあのとき、うまくできなかったのか」
「もっと頑張るべきだったのではないか」
「次は失敗しないように…」
こうした内省の連続は、未来に希望を持つための思考というよりも、過去への執着と自己否定を強化してしまうこともあるのです。

当たり前は確かか!?
プナンの価値観に触れていると、ふとこんな疑問が浮かびます。
「私たちが信じてきた価値観って、本当に“実態”があるのだろうか?」
やりがい、成長、成果、反省、目標設定――。
これらはいずれも、現代社会を支える重要なキーワードであり、私たちが日々の行動や人間関係を成立させるための“足場”となっています。
けれどプナンの人々のように、目の前の状況だけを感じ取り、その場その場で調整しながら生きる人々と接すると、これまで当然と思っていた「価値の体系」が、意外と空中に浮いているようにも見えてくるのです。
確かに、私たちの文明は「蓄積」によってつくられてきました。
過去を記録し、再現し、検証し、改善する。
そこに反省があり、学びがあり、発展があったのは間違いありません。
学校教育も、マネジメントのフレームワークも、テクノロジーの進歩も、
すべてはPDCAやナレッジシェアのような仕組みに支えられている。
それは確かに偉大な成果です。
人類の叡智といっていいでしょう。
しかし、ここで立ち止まって考えたいのは、「その蓄積は、人の心にどこまで寄り添えているのか」ということです。
あまりにシステム化され、目的合理性を優先する社会では、
一人ひとりの実感や感情が、「ノイズ」として排除されがちです。
ふとした違和感、うまく言語化できないもやもや、
くよくよする時間、空をぼーっと眺めることの価値―
プナンの人々は、蓄積もしなければ、記録も分析もしません。
でも、彼らは人との関係の中で、自然との呼吸の中で、たしかに生きています。
奥野さんのまなざしは、決して「文明は悪い」と断じているわけではありません。
むしろ、文明が持つ“偏り”を自覚し、「もうひとつの人間のあり方」を感じるための視座を提示してくれています。
私たちはいま、過去の蓄積を活かしつつも、
一度、心のレベルで「今、ここ」に立ち返る必要があるのかもしれません。
意味や成果を求めすぎず、ただ状況に応じて、流れにまかせて動いてみる。
そのとき、私たちの中の“実感”が、もう一度輪郭を取り戻すように感じるのです。
プナンは、つねに、もらったものを惜しげもなく誰かに分け与えることが期待されている。
でも、これは、後天的に身に着けさせられるプナンのカルチャーです。
プナンの人々は、何かを手に入れたとき、それを惜しげもなく誰かに分け与えるという行動様式を自然に行っています。
獲った獲物、拾った果実、外からもたらされた物資――
それらは「自分のもの」として囲い込むのではなく、誰かと分けるためにあるものとして扱われます。
この徹底した「分かち合い」の文化は、時に外部の人間から見ると、まるで理想的な“無私の精神”のようにも映るかもしれません。
しかし、奥野さんの観察によれば、これは先天的な性質ではなく、後天的に育まれるプナンの文化的実践です。
たとえば、幼い子どもが飴玉をもらったとします。
当然ながら、はじめは「自分のもの」として手放そうとしません。
しかし、それを見ていた親は、そっと言葉やジェスチャーで、隣にいる他の子どもに分けてあげるように促すのです。
子どもはしぶしぶ飴を割って差し出し、相手も当然のようにそれを受け取る。
こうしたやりとりは日常的に繰り返され、
「誰かと分かち合うことが当たり前である」という倫理観が、身体を通して刷り込まれていくのです。
つまり、プナン社会における“利他性”は、生まれ持った本能ではなく、
文化によって時間をかけて育てられる社会的スキルだということです。
この点は、私たちの社会における教育観と対照的でもあります。
私たちは、子どもが「自分のものをしっかり管理すること」や、「他人に依存せず自立すること」を重視します。
それに対して、プナンは「誰かと自然に関係を結び続けること」や、「持っているものは流通させること」を教える。
そこには、個人の所有よりも、関係性の持続を優先する社会的デザインが根付いています。
このようにして育まれる「惜しみなく分け与える」態度は、決して理想主義的な美徳ではなく、遊動的な社会を維持するための実践的な知恵です。
ものを囲い込まず、偏在させず、流通させることが、
食料も資源も不安定な森の暮らしにおいて、全体としての生存可能性を高めるのです。
それは「思いやり」や「博愛」の表れではなく、
もっと身体に根ざした、実践的な“倫理のしぐさ”と言えるかもしれません。
プナンにとって、「惜しげなく分け与えること」は、
単に後天的に身につけられる文化的態度であるだけでなく、狩猟採集民としての合理的な生存戦略でもあります。
森の中の暮らしには、「いつ、何が手に入るかわからない」という不確実性がつねに伴います。
どれだけ狩猟の腕に長けていても、獲物が取れない日はある。
果実や根菜を見つけられないこともある。
そのような中で、自分の手元にあるものを独占するのではなく、みんなで分け合うという文化があれば――
「今日は自分がもらう側、でも明日は与える側になる」ことが自然と循環していきます。
これは、蓄積できない社会における、もう一つの“セーフティネット”なのです。
プナンは、未来のためにモノを溜め込みません。
明日のために余分に食料を取っておくことも少ない。
代わりに、「いま、必要な人のもとにモノが流れる」ようにする。
この仕組みがあるからこそ、彼らは安心して、森の不確実性とともに暮らすことができるのです。
つまり、分かち合いは「無私」ではなく「持続可能性」のための構造であり、
彼らにとっては道徳ではなく、“生きるすべ”として受け継がれてきた知恵なのです。
そこには、「正しさ」でも「善意」でもない、もっと身体的で、状況主義的で、実利的な関係性の知恵が根付いているのです。
プナンの人々の暮らしに触れるとき、私たちは、自分たちの社会に染みついた「当たり前」の数々が、決して普遍的なものではなかったということに気づかされます。
時間は過去から未来へと直線的に流れていくもの。
モノは所有し、必要があれば契約して貸し借りをするもの。
恩は返すべきであり、借りは覚えておくもの。
そうした価値観は、私たちが長い時間をかけて築き上げてきた文明の基盤であり、
私たち自身のアイデンティティや行動様式を支える“土台”でもあります。
しかしプナンの人々は、それとはまったく異なる世界に生きています。
時間は「今、ここ」にしか存在せず、過去をくよくよと振り返ることもなければ、
贈与は記録も見返りもなく、ただその場の状況に応じて自然に流れていく。
それは、ルールのない世界ではありません。
むしろ、言葉や制度ではなく、身体と状況を通じて築かれる、もうひとつの秩序がそこには確かに存在しているのです。
奥野克巳さんが本書を通して見せてくれるのは、単なる「異文化の紹介」ではありません。
それは、私たちが信じてきた「進歩」や「蓄積」という価値観を、一度立ち止まって見直すための視座です。
文明は、反省し、改善し、未来をより良くするために発展してきました。
しかしその過程で、私たちは心の余白や、人と人のあいだの繊細なやりとりを、どこかに置き忘れてきたのかもしれません。
プナンのように、意味を与えすぎず、結果にこだわらず、いまを柔らかく受け取ること。
そこには、私たちがこれからの時代を生きるうえで必要となる、もうひとつの知恵が潜んでいるのではないでしょうか。
本書は、遠く離れた熱帯雨林の奥地での出来事でありながら、
読む者の内面に静かに、しかし確かに風を吹き込みます。
それは、「自分たちはどう生きてきたのか?」
「そして、これからどう生きるのか?」という問いを、そっと差し出してくるのです。
私たちの「当たり前」が揺らいだとき、そこから見える風景には、
これまで見えなかった“もうひとつの人間の可能性”が広がっているのかもしれません。
人類学については、こちらの1冊「【私たちはどのように生きるべきか?】人類学とは何か|ティム・インゴルド」もおすすめです。ぜひご覧ください。

まとめ
- 当たり前を疑うエスノグラフィーへ!?――異なる民族、異なる習慣から私たちを見つめましょう。
- 反省とはなにか!?――それは、時間と蓄積を前提とした、バーチャルな営みです。
- 当たり前は確かか!?――「当たり前」が揺らぐとき、世界が開きはじめる。
