- どうしたら、幸せを超えて、生きていくことができるでしょうか。
- 実は、生物としての人の成り立ちを知ることが、自分たちの幸せを考えることにつながるかも。
- なぜなら、幸せを求めずにはいられないのは、人の人たる所以によるところが大きいからです。
- 本書は、生物としての人を見極め、そして、生き方について考える1冊です。
- 本書を通じて、改めて私たちにとっての「生きる」意味について考える機会を得ます。
生物として、そもそも幸せとは!?
小林武彦(こばやし・たけひこ)さんは、東京大学大学院総合文化研究科の教授であり、専門は分子生物学。特に「ゲノムの維持機構」や「老化の仕組み」など、生命の根源に関わる研究に長年取り組んできた第一線の科学者です。
ただし、彼の特徴はそれだけにとどまりません。
科学的な厳密さを保ちつつも、社会や哲学、人間の生き方にまで関心を広げ、生命科学を“私たち自身の問題”として接続する語り口に定評があります。研究者でありながら、一般書やエッセイ、講演を通じて広く社会と対話しようとする姿勢は、現代の知のアクティビストとも呼べる存在でしょう。
主な著書には、『生物はなぜ死ぬのか』『DNAの98%は謎』などがあり、いずれも「ヒトとは何か?」という根源的な問いを科学の言葉でひもとく試みがなされています。
人は、「幸せ」を感じることで、生きる意味を見出すこともあります。その幸せという感情は、とても複雑で、いくつもの要素が絡み合っています。例えば、お金持ちになるということ。これももしかしたら幸せに影響する要素かもしれませんし、あるいは、平和に生きるということも、幸せに無くてはならない要素かもしれません。これらの要素は人によって異なるし、時代背景によっても、人の幸せに影響する要素として浮き沈みもあるでしょう。
なぜ人は、これほどまでに“ただ”生きるだけでも非常に多くの課題を持っているのか・・・。
なぜ、“ただ”生きるだけ、と描写したかというと、他の生き物は、もっと淡々と生きているからです。おそらく人だけがこれだけ、生きることについて、悩み時に、苦しみ、意味を見出しながら、生きることについて考えているのではないかと思います。
一方、他の生きものに目を向けると、生きることに理由などつけずに、ただ生きているように見えるものがほとんどです。
本書の中では、小林さんが、人類が生み出した生きるためのモチベーションの幸せという感情を、曖昧さを取り除いて、生物学的な価値観のもと再定義して、人という生き物の真相にアプローチします。
「幸せ」=「死から距離が保てている状態」
このように、小林さんは定義しました。この定義に沿って現状を見つめていくと、人を幸せから妨げるさまざまな原因がわかってきて、さらにその原因が一つ一つの細胞に存在する「遺伝」にあったというのです。
人の幸せとは!?
多くの生物・動物にとって、「生き残ろうという意志」「子孫を残そうという意志」によって、生きるが駆動しています。
これらが全てであると言っても過言ではないかもしれません。余計なことを考えないのですね。でも翻って人はどうでしょう。
とても厄介なのが、知性を持ち、自身を客観的に見つめられる生き物であり、しかも、社会性を持ってしまったがゆえに、さまざまな課題をえてしまいました。
それは、いわば「進化の副作用」とも言えるかもしれません。
人は高度な知性を獲得したことによって、「自分はなぜ生きているのか?」「この人生に意味はあるのか?」という問いを抱くようになりました。そしてそれに加えて、社会という“他者と比べる仕組み”の中で生きるようになったことで、個としての感情がより複雑に絡まりはじめたのです。
たとえば、他人と自分の経済状況を比較する。他人の承認を得られないことに苦しむ。未来の不安に苛まれる。こうした現代的な悩みは、どれも「社会的動物としてのヒト」であることの帰結なのだと、小林さんは指摘します。
しかも現代は、「生存の危機」からはある程度距離を保てるようになったにもかかわらず、それでも“幸せになれない”。このねじれこそが、ヒトという生き物の本質を映し出しているのです。
私たちヒトは、「死からの距離が保てている状態」を“幸せ”と感じるように進化してきました。これは、生き延びることに最適化された生命体として、きわめて自然な感覚です。
しかしここで、小林武彦さんは重要な視点を提示します。
それは、人間が「ベター志向」を持ってしまったことの功罪です。
つまり、ただ生き延びるだけでは満足せず、「より良くありたい」「もっと快適に、もっと便利に、もっと効率的に」と、絶えず“今よりマシ”を求め続ける性質のことです。この志向こそが、農耕、都市、貨幣、情報社会、デジタル化といった文明を発展させてきた原動力でもありました。
ベター志向は本能です。
けれども、ここに決定的な落とし穴があるのです。
人間が作り出した“ベターなもの”の使い方は、遺伝子に刻まれていません。
つまり、どこまでなら使ってよいのか、どこから依存になるのか、その見極めが本能的にはわからないのです。
その結果、快楽中毒、SNS依存、過剰労働、比較による承認欲求疲弊――私たちは、自ら作り出した“より良い社会”の中で、むしろ不安定に、あるいは不幸になっているのかもしれません。
進化は「個体が環境に最適化されるプロセス」ですが、文明は「環境のほうを個体に最適化していく試み」でもあります。けれど、そのスピードはあまりに早すぎ、人間の本能は追いついていない。
私たちは「ベターな環境」の中で、「幸せを感じづらい設計の脳」を抱えたまま生きている――ここに、人間特有のねじれがあるのです。
人として「死にたくない」ことを考えるには、生物として死を避けるのは当然ですが、社会的な生存本能をいかしてしまうことも同時にあります。
例えば、集団の中で生き残るためには、以下のようなケアもしないといけないでしょう。
- 空気を読むこと。
- 自分の位置を絶えず確認すること。
- 集団から追い出されないように振る舞うこと。
- 他の人より少しだけいい評価になるように努力すること。
などです。
小林さんが指摘するように、ヒトが社会性を進化させていく中で、農耕という定住型の生活様式が生まれ、そこに定着した“役割”や“序列”の意識が、人間の行動を規定するようになりました。
それはやがて、文化的な記憶=ミーム(meme)として共有され、空気を読む、自分の立ち位置を把握する、評価を気にする、といった行動様式が強化されていきます。
つまり私たちは、「ただ生き延びる」こと以上に、「よりよく生き延びること」「うまくやること」に苛まれるようになったのです。
そしてここに、“ベター志向”と“社会的生存本能”が結びついたときのやっかいさがあります。
ベターな自分を演出し続けること。
比較され、評価され、期待されることに応え続けること。
集団の中で目立ちすぎず、かつ埋もれないこと。
こうした持続的な緊張状態のなかで、ヒトはますます「今ここ」の幸せから遠ざかっていくのです。
ヒトの“ベター”好きの性格と、比べるのが得意な性質のために、「幸せ」の状態を維持し続けるのは難しいです。
この一文には、ヒトという生き物が抱える“構造的な不幸”が集約されています。
私たちは、ある瞬間に幸せを感じたとしても、すぐに**もっといい状態があるのでは?**と考え始めてしまいます。今ある満足は、次の“ベター”を求めるための通過点にされてしまい、やがては物足りなさに変わるのです。
しかも、比較がそれに拍車をかけます。
誰かがもっと良い評価を得ている。誰かがもっと自由に働いている。誰かがもっと素敵な人生を送っている――。このように、ヒトは自分の「幸せの実感」を、他者との相対的な位置づけによって揺さぶられてしまう性質を持っています。
これは、「生き残るための社会性」という進化の観点からすれば、仲間の状況を把握し、危機や機会を素早く察知するための有能な能力です。
しかし、それが現代のSNSや大量の情報のなかで暴走すると、「自分が幸せかどうか」は主観ではなく、他人の人生の“切り取られたハイライト”によって規定されるようになってしまいます。
つまり、幸せは“感じるもの”ではなく、“演じられたものと比較されるもの”に変わってしまうのです。
好奇心こそが重要!?
私たちは、「もっと豊かになれば、もっと幸せになれるはずだ」と考えがちです。
けれど、小林さんはそれに明確な“ノー”を突きつけます。
豊かさは、人間の一部の欲求を満たすかもしれないが、幸せを保証するものではない。
それはなぜか?
豊かさとは、主に物理的・経済的な充足です。モノが増えること、空間が広がること、選択肢が多くなること。しかし、それらは人間の“ベター志向”や“他者と比べる性質”によって、すぐに“当たり前”に塗り替えられ、さらなる不足感を生んでしまうからです。
しかも、私たちは幸せになるために豊かさを追い求めているはずなのに、その豊かさが「不幸の種」になることさえあるというのが現代の皮肉です。
たとえば、選択肢が増えたことで決断疲れを起こす。SNSによって人の生活が可視化され、比較の連鎖に陥る。AIによって効率が上がっても、心は置き去りのまま――。
これらはすべて、「豊かになった結果、心が貧しくなる」という逆説を物語っています。
どれだけベターを積み重ねても、どれだけ豊かになっても、心の回路が“ベター志向”のままであれば、「今ここの満足」には決してたどりつけないのです。
そうした状況を踏まえて、私たちは、どのように“幸せ”を目指すように、あるいはそれを持続させるようにこれまで工夫をしてきたのでしょうか。
それは、「夢」を持つことによって、であると、小林さんは説きます。
超越するまでの間、「死からの距離感」を保ち続けるために個人でできることの一つは、何か好きなことに没頭し、あるいは成長や目標のために努力し、ベターを目指すことでしょう。
小林さんは、人類が進化の中で抱えてきた“夢”を3つ挙げています。
- 「宇宙の解明」
- 「賢くなりたい」ということ
- 「不老不死」
これらはどれも、生きものとしての限界を“超越”しようとする衝動の現れです。
言い換えれば、人類は「死からの距離をいかに遠ざけるか」を追い求めてきた存在であり、それを科学や知の探究、テクノロジーの進化という形で実現しようとしてきました。
けれども現実には、まだ私たちは“死を超える”ところまでは到達していません。むしろ、その手前の現実――不安や孤独、比較や欠乏――とどう付き合っていくかが問われている段階です。
だからこそ、小林さんは、ベター志向を絶望のループではなく、「生きるための推進力」へと転換する必要があると語ります。
そのヒントのひとつが、「没頭」と「成長」です。
死からの距離感を保ち、過剰な不安に呑まれないためには、
何か好きなことに夢中になること。
目標に向かって、小さくても自分なりのベターを積み重ねていくこと。
このような“今ここ”での活動が、自分自身を「生きている」と実感させてくれる。
しかも、それは他者との比較ではなく、自分の内面との対話に基づく営みであるため、幸せを持続させるための現実的な技法となり得ます。
人が死を忘れて、没頭することが実は、幸せを持続させる最も効果的な要素であると言えるのです。
それは、“ベター”を追求することを叶えて、没頭によって“比較”によって自分を他者と比べることについて、少しの距離感をもたらしてくれます。
科学技術の発展もその結果として人が人にもたらしてきました。
そう考えてみると、究極的に考えると、“未知なるもの”やそれを求める“好奇心”の存在こそが、幸せの根源であると捉えることができるかもしれません。
それは宇宙という広大な世界かもしれないし、あるいは、もっととっても身近な自分という未知なる存在についてのことかもしれません。いずれにしても可能性を感じ、それに向かっている時、人は死を忘却し、命を全うし、そして、幸せを持続させることができるということでしょう。
今この瞬間、あなたが夢中になれることはありますか?
それが、あなたを“死から遠ざける”力となり、“生きている”と実感させてくれるものかもしれません。
まとめ
- 生物として、そもそも幸せとは!?――死から距離をとれている状況を実感することです。
- 人の幸せとは!?――ベター志向と比較の性質で、もっと複雑になってしまいました。
- 好奇心こそが重要!?――それが死を忘れ、幸せを持続化させてくれます。