正しい“自由”をインストールせよ!?『都市と地方をかきまぜる ~「食べる通信」の奇跡~』高橋博之

都市と地方をかきまぜる ~「食べる通信」の奇跡~
  • どうしたら、本来的な「自由」を見出すことができるでしょうか。
  • 実は、都市という私たちが作ってきた仕組みをもう一度見つめることが重要かもしれません。
  • なぜなら、都市を創ることで、過剰な分断を生んでしまっているとも捉えることができるから。
  • 本書は、つながりを求める人と、分断を作ってしまった社会についてもう一度見つめる1冊です。
  • 本書を通じて、人という生き物にとっての自由な暮らしぶりを想像するヒントを得ます。

生きることに向き合うには?

高橋博之さんは、元岩手県議会議員であり、「東北食べる通信」の創刊者としても知られる起業家・実践家です。

政治の現場で地方の課題に向き合う中で、「地方の声は都市には届いていない」と痛感し、政治から離れて自ら実践者として動き始めます。

その第一歩が「食べる通信」でした。

「食べもの付き情報誌」というユニークなかたちを通じて、生産者のストーリーと、彼らが育てた食材をセットにして都市の生活者に届けるというもの。これは、情報と物流、そして人の思いを重ねて“食べる”ことの意味を再構築する、画期的な試みでした。

本書の核心にあるのは、都市と地方を「つなぐ」ではなく「かきまぜる」という視点です。

つなぐ=橋を架けることでは、対立構造はそのままです。
かきまぜる=境界を溶かし、新しい文化を生む営みだと、著者は言います。

都市と地方、消費者と生産者、見える人と見えない人――それらのあいだにある「無関心」や「分断」の壁を、どう崩していくのか。その答えは、意外にも、食という誰もが関わる日常の行為にありました。

今日の都市住民が幽閉されているのは、「自由の奴隷」ともいうべき檻だ。

私たちは、個人の「自由」を求めて、つまり、だれにも干渉されずに、「自由」に生きていくことを求めて、都市で一人ひとりが気兼ねなく暮らせる環境をこれまでの時代で、整えてきました。

では、なぜ「自由」を追い求めたはずの都市において、私たちはどこか不自由さを感じてしまうのでしょうか。

それは、おそらく「つながり」と「干渉」を取り違えてきたからかもしれません。

本来、人と人とのつながりは、ただの束縛ではなく、自己を広げ、世界を知るための「窓」のようなものです。しかし、都市の設計はあまりにも“効率”と“プライバシー”を重視するあまり、人との関係を「煩わしいもの」として切り捨ててしまった。

その結果、私たちは“自由”と引き換えに、孤立という檻の中に閉じこもるようになってしまったのです。

でもここにひとつの事実を提示するとすれば、「人は、ひとりでは生きられないということ」です。

高橋博之さんが『都市と地方をかきまぜる』で問いかけるのは、この「現代の自由」の本質です。

生きるとは、食べること。
食べるとは、誰かが作ったものを受け取ること。
そしてそれは、他者との「関係」の中でしか成立しない。

つまり、本当の自由とは、だれとも関わらずに生きることではなく、むしろ“だれかと共に生きることを選び取る自由”なのではないかと、本書は問いかけているように思えるのです。

もうひとつ都市住民が囚われているのは、「生きる実感の喪失」という檻だ。

日常生活の利便性を極限まで高めていく中で、都市はコントロールできるものを選択し、それを提供し、金銭価値で交換する仕組みを発達させることで、人と自然とを可能な限り切り離すことに挑戦してきました。

そうして、私たちは自然のゆらぎや、予測不能な出来事、手間や不確実性を、効率の名のもとに排除してきました。

土に触れることも、天気に左右されることも、知らない誰かと偶然に会話を交わすこともない日々。そんな環境の中で、気づけば「生きている」という感覚そのものが希薄になっているのではないでしょうか。

しかし、人間とは本来、身体感覚を通じて世界とつながり、他者や自然との関係性の中で、自分を実感する生き物です。

食べる通信』は、まさにこの感覚を取り戻す装置でもあります。

情報誌を通して知るのは、たとえば、海の上で荒波と格闘する漁師の姿。汗を流しながら泥にまみれて野菜を育てる農家の思い。そのリアルな「営み」とともに届く食材を、自らの手で調理し、家族や仲間と食卓を囲む。

そこには、ただ栄養を摂るだけではない、「生きる」という行為の豊かさが詰まっているのです。

両立する未来を!?

実は、都会も田舎も、すでに行き詰まりの只中にあります。

都市は、自由と便利さを突き詰めすぎて孤立と実感の喪失を招き、田舎は、人口減少と経済の縮小によって持続可能性を失いつつある。

つまり、「都会か田舎か」という二項対立の中で、どちらかを選ぶこと自体が、もはや無意味な問いになっているのではないでしょうか。

重要なのは、都市と地方の“あいだ”に新しい関係性を編み直すこと。

都市が地方に触れること、地方が都市の視点を取り入れること、そしてそれぞれが「自分たちの都合」ではなく「相手の暮らし」や「関係性の質」に目を向けていくこと。

この本のタイトルにある「かきまぜる」という言葉には、まさにその希望が込められています。

都市と地方をかきまぜる。
生産者と消費者をかきまぜる。
知っていることと、知らなかったことをかきまぜる。

その結果として、新たな価値や人間関係が“発酵”していくような未来

都会と田舎、それぞれに強みと弱みがある。

高橋さんが語る「共犯者になる」という視点は、そうしたかきまぜのプロセスに、当事者として関わることを促してくれるメッセージでもあるのです。

自由とは!?

そもそも、私たちは「食べて生きている」はずなのに、現代の都市生活ではその実感がどんどん薄れてきています。

都市住民たちは食べるという本来的行為からずいぶん離れてしまっている。

スーパーでパッケージされた野菜や肉を手に取りながらも、それがかつて「土に生きていたもの」「海を泳いでいたもの」だったという、生きものとしての背景を想像することは、ほとんどありません。

それはまるで、食べものが“部品”や“素材”として、ただの「消費対象」に変わってしまったかのようです。

この断絶の構造が、まさに本書で高橋博之さんが警鐘を鳴らしている点です。

食とは、命と命がつながる行為であり、かつては誰もがその「循環」の一部にいた。

ところが今では、私たちはその循環の“終点”であるだけになりつつあるのです。命をいただいているという感覚も、生産の現場で何が起きているかという知識もないまま、「食べること」すら他者任せにしている。

だからこそ、『食べる通信』は、「食材と一緒に物語を届ける」ことで、この断絶された回路を再接続しようとしています。

ただ食べるだけではなく、「誰が」「どこで」「どんな思いで」作ったのかを知ることで、食べることは“消費”から“共生”へと変わっていくのです。

それは、「ものを買う人」ではなく「物語に関わる人」への転換です。

都市の私たちが、遠くの土地の「生きもの」や「人の営み」とふたたびつながるための手がかり。

それが、“食べもの付き情報誌”というかたちをした、ひとつのメディアの力なのです。

そもそも、「食べる」という行為は、あらゆる営みの中でもっともプリミティブで、かつ本質的な行為です。

人が生きるとは、誰かの命をいただくこと。その連鎖の中に自分がいることを、私たちは本能的に理解しています。

だからこそ、「食」を媒介としたつながりは、どんな思想よりも、制度よりも、根源的な共感を生み出す力を持っています。

本書が私たちに伝えてくれるのは、その「食べること」の奥にある世界を、もう一度見つめ直すことの大切さです。

その時、消費者は単なる「受け手」ではなくなります。

高橋さんが提唱する「共犯者」という言葉には、そうした意味が込められています。

生産者と消費者、地方と都市という線引きを超えて、ひとつの物語に関与し、感情を揺さぶられ、ある種の“責任”を共有する存在になること。

「おいしい」「ありがたい」という感覚が、「この人の暮らしを支えたい」「この土地の営みを続けてほしい」という思いに変わるとき、私たちは「共犯者」になります。

それは、傍観者ではなく、関係者になるということ。

結局のところ、本書が私たちに問うているのは、「生死の循環の中に、私たちは正しく身を置いているだろうか?」ということなのかもしれません。

食べるという行為は、他の命をいただくことで自らを生かす、最も根源的な「関係性」です。

しかし、私たちはその関係のリアリティから遠ざかり、ただパッケージされた栄養としての“食材”を受け取る生活に慣れてしまった。

そこには、命の気配も、人の暮らしの匂いも、季節や土地の風もありません。

だからこそ、高橋博之さんは「食」から始めたのです。
食べものの向こうにある生き物の世界、つくり手の営み、土や海との関係を、もう一度手繰り寄せることで、私たちは「生きる実感」を取り戻していける。

都市と地方の分断を癒すのも、自由と孤独のあいだのバランスを見直すのも、すべてはこの「循環」にふたたび身を委ねることから始まるのではないでしょうか。

そして、ただの観客ではなく、“共犯者”としてこの世界に関わり、血の通った物語の一部として自らを位置づけていく。

都市と地方をかきまぜる』は、そうした「現代を生き直す」ための、とても静かで、でも力強いメッセージに満ちた一冊です。

津波で洗われた三陸の海岸線で漁をする畠山さんの言葉の引用が深く響きます。

「命はみんなつながっていて、みんなで海を豊かにすればみんながその恩恵にあずかることができる。森が豊かになり、川がきれいになり、海の力が引き出されれば水産物がたくさんとれ、値段が下がる。そうなれば魚の消費が伸びる。魚を食えば必然的にご飯を食べる量も増える。例えば一貫五〇〇円の寿司があったとすると、通常シャリ代は一〇円、ネタ代が四九〇円。だから海が豊かになれば、寿司なんか半値でいい。みんなが寿司屋のカウンターで食べられるようになり、行く回数も増える。漁師もよくなり、農家もよくなり、消費者にとってもいい。流域全体がよくなっていく」

欲を出してはいけないのです、そして、つながりをなくして個人に閉じてもいけない。

全体感の中で絶えずバランスを確保していくこと、それが、本当に豊かに生きていくという志を形にすることでああり、私たちが人として豊かに生きていくことを考えることにつながっていきます。

最後に本当の自由について、まとめてみましょう。

私たちがこれまで信じてきた「自由」とは、だれにも干渉されないこと、思い通りにふるまえることでした。
都市の暮らしはその“自由”を徹底的に追求し、効率と個人主義の名のもとに、あらゆる関係性を切り離してきたのかもしれません。

しかし本書が静かに語りかけてくるのは、そうした「孤立の自由」の限界です。

本当の自由とは、何にも縛られないことではなく、むしろ制約やつながりの中に、自らの選択で身を置くことにあるのではないでしょうか。

自然の摂理に沿い、他者と関係を結び、命のやりとりの中に生きる。
その循環の只中で、自分の意思で関与し、共に生きることを選び取る——。

それこそが、私たちが目指すべき「自由」なのだと思います。

都市と地方をかきまぜる』は、食という日常の入口から、関係の再設計へと読者を導いてくれる一冊です。
この本を通じて、「ほんとうの自由」とは何かを、もう一度考えてみたくなります。

まとめ

  • 生きることに向き合うには?――豊かに食べる、生死と向き合う原点に立ち戻ることです。
  • 両立する未来を!?――都会 or 田舎ではなく、両取りの世界線を描きましょう。
  • 自由とは!?――制約・つながりの中にこそ、見出されるバランス感覚における自由です。
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