- 自らの生き方を内省する時、どのような考え方を土台にするのが理想でしょうか。
- 実は、老子の説く、世界観がヒントになるかも。
- なぜなら、そこにはものごとの普遍的な真理があるから。
- 本書は、世界を静的ではなく、動的に捉えるためのヒントに満ち溢れています。
- 本書を通じて、絶えず揺れ動く世界の中で、よりよい自らの所作を身につける機会を得ます。

老子OSを起動せよ!?
私たちは日々、多くの「べき論」に囲まれて生きています。
こうあるべき、こうすべき、こう生きるべき──。
しかし、それらの「べき」に従って生きることが、本当に自分自身の人生と呼べるのでしょうか?
本書は、そのべき論から、一定程度距離を置くために、「老子」の考え方を紐解き、その大きな思想のなかで、もう一度自分自身を見つめ直すきっかけを提供してくれるものです。
理系出身の異色の思想家──
東大工学部を卒業し、経済学博士として出発した安冨歩さん。にもかかわらず、たどり着いたのは「人とは何か」「感情とは何か」「自然に生きるとはどういうことか」という、人間の根源に関わる問いでした。
現在は東京大学東洋文化研究所の教授を務める一方で、老子思想を軸とした「生き方」の探究や、教育、ジェンダーの問題に至るまで、まさに“越境”を重ねながら社会に問いを投げかけ続けています。
「老子(ろうし)」──名前は聞いたことがあるけれど、具体的に何を言った人なのかは意外と知られていないかもしれません。
老子は、紀元前6世紀ごろの中国に生きたとされる思想家であり、道家(タオイズム)の始祖とされています。代表作は『老子』あるいは『道徳経』と呼ばれる書で、たった5000字あまりの短い文章の中に、深遠な人生の知恵が詰め込まれています。
孔子が「秩序」や「仁義」を説いたのに対し、老子は「無為自然(むいしぜん)」──つまり、「手を加えすぎず、自然にまかせて生きる」ことを重んじました。社会の制度や常識にとらわれず、もっとも本源的な“道(タオ)”にしたがって生きよ、と語るのです。
そして、その思想は現代にも驚くほどフィットします。
競争、自己実現、効率性、成果主義……あらゆる「すべき」で疲弊しがちな現代人にとって、「あるがままに」というメッセージは、まるで心の奥深くに響く処方箋のように感じられるのではないでしょうか。
老子の思想のOSのような考え方が、「世界を静的なものとして、見立てるのではなく、動的なものとして、本質を見よ」というものがあります。
世界のいかなるものも、静的にずっととどまっているものはありません。生き物だけではなく、無機物だって、生まれ、変化し、滅ぶものとして理解していく。そして、そもそもそういう世界は変化するという前提があるにもかからず、私たちは、それを固定化したものとしてとらえるきらいがある。
このGAPにこそ、人が苦労したり、心配したり、気をもんだりする原因があるのであると説きます。
世界のいかなるものも、動かないものとしてではなく、生まれ、変化し、滅ぶものとして理解する。
そうした前提を知ることからスタートしてみましょう。
老子視点で世界をスキャンせよ!?
そして、人は言葉を使います。言葉によって、そうした固定化というのがより強調されてしまうと言っても良い。
たとえば、「りんご」というと、「りんご」には本来いろいろな状態や形態、あるいは、比喩も含めればあらゆることが「りんご」となりうるはずなのに、私たちは、個々に特定の「りんご」を思い浮かべて、それから離れられなくなってしまうことがあります。
しかし同時に、言葉は世界を“切り分け”、固定化してしまう側面も持っています。
たとえば、「正しさ」と「間違い」、「成功」と「失敗」──。
こうした二項対立的な概念は、もともと流動的で、揺れ動く現実を、無理やり枠にはめ込むことで安心を得ようとする働きなのかもしれません。
人が抽象的な概念や、いまここにない世界を想像できるのは、また、これも言葉による能力です。そうした“イマジネーション”や“インスピレーション”があるからこそ、人は人であるということが言えるでしょう。
しかし、同時にそうした特徴が自らを縛り付けてしまうことになってしまっているとしたら・・・。
言葉のちからは偉大なのです。
老子は、それを「名(めい)」の問題として語ります。
「道(タオ)」という真理は、名づけた瞬間に、もはや“道”ではなくなってしまう、と。
有名な冒頭の一節──
道可道、非常道。名可名、非常名。
──すなわち、「語りうる“道”は、真の“道”ではない」「名づけうる“名”は、恒久の“名”ではない」という指摘は、言葉によって世界を把握しようとする人間の営みそのものに警鐘を鳴らしているのです。
そしてここに、老子思想の核心があります。
「言葉で世界を固定しようとすること自体が、人を縛り、不安にし、自然の流れから遠ざけてしまう」という逆説。
だからこそ、老子は「無為自然」に身を委ねよ、と説くのです。
安冨歩さんは、そうした老子の思想を、現代を生きる私たちが“体感”できるようなかたちで読み解いていきます。

現状を疑い、問いを許せ!?
確かなものにすがろうとするから、私たちは不安を覚えます。
そうではなく、絶えず世界や自分も、あらゆるものが流転のものであるという事実を認めることで、そうしたネガティブな気持ちから脱して、ものごとに対して曇りのない視線を向けることができます。
生きるためには、ものごとの根源に立ち返り、自らを、そのあやうさに委ねればよい。
大いなるもの(つまり、変化を司る大きな力)に自分を委ねること、それこそが「あるがまま」を認める姿勢となります。
言葉のあやうさ、世界のあやうさ、動的な状態を理解することは、それがすなわち、判断ができないという事実を知ることでもあります。
この世界にはもともと、善悪も優劣もない。
それはたまたまその状態を区切ったうえでの箱庭の上で、状況を固定化できると仮定した場合の、ものごとの見方のひとつにほかならないというのです。
そうした判断というのは、もともと意味のないことであると分かるでしょう。
たとえば、「成果を上げた人が優秀であり、そうでない人は劣っている」という評価軸もそのひとつです。
しかし、ある環境において評価された「成果」は、別の文脈においては無意味であったり、むしろ害になることさえあるかもしれません。
同様に、ある時点で「正義」とされた行為が、数年後には「誤り」として批判されることもあります。歴史の教科書は、その繰り返しです。
たとえば――
- 学校で成績の悪かった子どもが、社会に出てから独創的な起業家として活躍すること
- 時代遅れとされた伝統技術が、次の世代には最先端の感性として再評価されること
- 過去には「常識」とされた価値観が、ある日を境に「差別」として糾弾されること
こうした事例は、善悪や優劣といった判断が、いかに一時的で、文脈依存で、仮のものであるかを示しています。
だからこそ、「判断すること」に執着するのではなく、世界そのものが変化し続けているという前提に立つ。
そこにこそ、老子の言う「無為自然」、つまり「あるがまま」を受け容れる姿勢が生まれてくるのです。
では、どうしたらこうした前提の世の中で、判断を保留にしたまま、よりよく生きることができるでしょうか!?
よく生きるには、感性を豊かにすればよい。
知識や論理を磨くことではなく、「感性を豊かにすること」にあります。
安冨歩さんは、本書のなかで繰り返し、「感じる力」にこそ人間の本質があると語ります。
判断や評価といった“思考”ではなく、いまこの瞬間に自分の心と体が“どう感じているか”に目を向けること。
それが、複雑で正解のない現代をしなやかに生き抜くための、一つの術なのです。
たとえば、誰かと話していて、うまくいっているように見えるのに、なぜか胸のあたりがざわざわする。
あるいは、「この道を進めば安泰だよ」と言われても、どこか身体がついてこない。
そうした微細な違和感に耳を澄ませること──それが、「あるがまま」の世界と調和する入り口となります。
感性とは、世界の変化を直接受け取るアンテナのようなものです。
「こうであるべきだ」という思考のフィルターを外し、目の前のものをそのまま感じる力。
それはまるで、静かな水面が風を受けて揺れるように、自然に応じて自分の形を変えていく柔らかさでもあります。
老子の教えにおいて、水はしばしば理想的な存在として描かれます。
かたちがなく、低きに流れ、何者にも逆らわず、しかし岩をも穿つ強さを持つ──。
私たちもまた、判断にしがみつくのではなく、感性を澄ませ、流れに身を委ねるように生きることで、「よく生きる」ということの本当の意味に触れられるのかもしれません。
上善若水。水善利萬物而不爭,處衆人之所惡,故幾於道。
上善は水のごとし。水はよく万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。
もっとも優れた生き方とは、水のようである。
水はすべてのものを潤しながら、それらと争うことがなく、
誰も好んで近づかないような低いところに自然と身を置く。
そのあり方こそ、“道”に最も近いものである。
水とは触れるものに調和ももたらします。それは、水という特性が、その触れるものの本質を知るからでしょう。
聞いても聞こえない言葉を受けとる。
そうした精神のあり方を老子も説いてくれています。まさに、そうした真を見つめる視点こそ、“高い感受性”や“感性”あってこそであると言えるでしょう。
目の前にあるものごとは、本当にたしかにそこにあるのか、それは自らが作り出した幻想でないのか、本当に大切なことは、もっと大きな視点や異なる次元にあるのではないか、そういう発想や考え方や視点を養っていくことが、もしかすると感性を養っていく習慣となっていくかもしれません。
そうした「本当にそうだろうか?」という問いかけこそが、
固定化された認識を揺さぶり、感性をゆっくりと目覚めさせていきます。
目の前の現実を“そのまま”受け入れるのではなく、
それが果たして自分のフィルターによって歪められた幻ではないかと立ち止まること。
そのたびに、私たちは“見る”という行為そのものを深く問い直すことになります。
老子が語る「道(タオ)」とは、まさにそうした“問いを許す”世界です。
言葉や理屈で説明しきれない、もっと大きなうねりや循環に自分をゆだねること。
それは、いわば“理屈を手放す勇気”であり、“感じることに賭ける強さ”です。
そして、私たちがふだん「正しい」と思っている判断や、「現実」と思っている世界が、
実は小さな枠組みの中で仮に定められたものにすぎないと気づいたとき、
ようやく目の前のものごとが「ひとつの見方」にすぎなかったのだと、ふっと肩の力が抜けてくる。
そのとき、はじめて「あるがまま」が顔をのぞかせるのかもしれません。
つまり、感性を養うとは、答えを急がないこと。
わかった気にならず、揺れたままでいることを許すこと。
そして何より、自分の中にある違和感やざわめきを、
「無視せず、感じきる」という態度を持つことです。
それは不安定なようでいて、実はとても深く安定したあり方。
水のように、かたちを決めず、しかし確かに世界を潤していく生き方なのです。
世界の見立てについては、仏教の世界観からもヒントを得ることができます。例えば、こちらの1冊「仏教2600年の叡智に触れよう!!『心が回復する禅問答』島津清彦」もあわせてぜひ、ご覧ください。

まとめ
- 老子OSを起動せよ!?――それは世界をもう一度「動かして」いきます。
- 老子視点で世界をスキャンせよ!?――言葉を超えた感性でものごとの真実を見ます。
- 現状を疑い、問いを許せ!?――そもそもを見つめ直し続けることが、わたしたちにできることです。
