- どうしたらプロジェクトにうまく関与していくことができるでしょうか!?
- 実は、身銭を切るということが何より重要かもしれません。
- なぜなら、そのことで真実を見つめる視点と視野を得ることができるからです。
- 本書は、何がプロジェクトにおいて欠かせないことかを思い出させてくれる1冊です。
- 本書を通じて、自分の行いやマインドセットを振り返り、本気度を再確認することができます。

身銭を切ることしかない!?
なぜ、リスクを引き受ける人の言葉には、説得力があるのでしょうか。
それは、「身銭を切る」という行為が、その人の言動に責任と信頼を与えるからです。
本書『身銭を切れ』で、ナシーム・ニコラス・タレブは、真に信頼すべき人間とは誰か、信頼できる判断とはどのように見極められるのかを問い直します。口先だけの評論家や制度の中に隠れて安全圏から他人を批判する者たちではなく、自らリスクを負って選択し、行動している者だけが「語る資格」を持つのだと、彼は厳しく断じます。
この本を読んで、まず突きつけられるのは、「あなた自身は、リスクを取っているか?」という問いです。
著者のナシーム・ニコラス・タレブは、レバノン生まれの思想家・哲学者・元オプショントレーダーです。ウォール街で長年にわたり金融の最前線に身を置いた実務家でありながら、統計学・哲学・認知科学にも深い造詣を持ち、実践と理論を自在に行き来する異色の知性として知られています。
代表作には、予測不能な出来事が世界を動かすという『ブラック・スワン』、不確実性の中でこそ強くなる「反脆弱性」の概念を提唱した『反脆弱性』などがあり、いずれも世界的ベストセラーとなりました。
本書は、身銭を切るということ、つまり、そういう覚悟をもってものごとに関わることの重要性を次の3つの論点で語ってくれています。
1)公平、公正、責任、相互性といった人間的なものごとにおける対称性。
2)商取引における情報共有。
3)複雑系や実世界における合理性。
まず第1の論点は、「対称性(symmetry)」です。
タレブは、人間関係や社会制度における本質的な公平さは、「当事者が同じリスクを背負っているかどうか」で判断されるべきだと主張します。たとえば、自分は痛みを伴わず、他人にだけ痛みを強いるような行為──つまり“ノー・スキン・イン・ザ・ゲーム”な立場──は、不誠実であり、長期的に見れば社会の信頼を崩壊させる要因になると説きます。
この「対称性」は、古代からの知恵にも通じています。たとえばハンムラビ法典には「橋を設計した建築家が建てた橋が崩れて人が死ねば、その建築家も死刑」という条項がありました。
極端なようですが、まさに“身銭を切る”ことで信頼と責任を担保していたのです。現代においても、肩書きや地位に隠れて他人にリスクを押しつける人間ではなく、自らの選択に責任を持つ者が真に信頼されるのだと、タレブは改めて訴えています。
続いて第2の論点、「商取引における情報共有」について。
タレブは、リスクを取っていない人間ほど、抽象的な理論や安全圏での分析に頼る傾向があると指摘します。
一方で、実際に身銭を切って事業を行っている人々は、常に肌感覚で状況をとらえ、情報を生きた知識として交換します。これは、中央集権的な統制とは異なる「分散型の知のネットワーク」を生み出すものであり、長期的に見ればより持続可能で強靭なシステムをつくる基盤になります。
つまり、真に信頼できる「知」とは、現場でリスクを取りながら行動している人たちのあいだで共有されるものに宿るのです。
そして第3の論点、「複雑系と実世界の合理性」。
タレブの一貫した立場は、「現実は複雑であり、完全には予測不可能だ」というものです。こうした複雑系の世界では、理論的に正しそうな判断よりも、「実際にそれで生き延びられるかどうか」の方が重要になります。つまり、リスクを引き受けて初めて見えてくる合理性があり、それは時として、机上の合理性とは相反するものになります。
この文脈で「身銭を切る」という行為は、単なる精神論ではなく、むしろ“唯一信頼できる合理的判断基準”であるともいえるのです。
これらに通奏低音のように流れるのは、私たちが当然のように生きている中で育む感覚です。
だから、「自分がしてほしいことを他者にもせよ」という相互性の原則
つまり、身銭を切らない限り、また、そうした事実と向き合わない限り、常に自分自身がものごととの距離感を適切に詰められないことにつながっていくのかもしれません。
そして身銭を切るということは、限られたリソースの中での個人的な人生戦略を思考するヒントをつねに提供してくれるとも言えるのです。
考えよりも実践を!?
本書が語る「身銭を切る」という行為は、単なる覚悟や美学の話ではありません。それは、リスクと向き合うことで初めて、自らの意思決定が現実世界にどう作用し、どんな帰結をもたらすかを真に理解するための“思考装置”なのです。
現代の私たちは、つい情報の受け手に回り、自分ごと化する感覚を失いがちです。ですが、タレブは言います。「リスクを負わずに語る言葉には、意味がない」と。厳しいようでいて、これは私たちに「現実に触れろ」と促すラディカルな優しさともとれます。
そして実際、ビジネスの世界においても、身銭を切って行動している人は、判断も早く、意思決定が研ぎ澄まされています。なぜなら、限られた時間と資源をどう使うかという問いと、常に向き合っているからです。
つまり、「身銭を切る」とは、他者との関係性を誠実に結び、自分の人生を主体的に設計するための姿勢でもあるのです。
実践家は、説得ではなく実行することで勝つ。
ただ考えているだけでは、話になりません。
大切なのは、実践してみることにほかならない!ということが繰り返し本書の中では語られます。
身銭を切らない連中の設計したものごとは、どんどん複雑になる傾向がある(そして、最終的に崩壊する)。
このようにタレブは、痛烈に批判します。また、身銭を切らない人々は、シンプル性そのものが理解できない。ということも語ります。
自分の意見に従ってリスクをおかさない人間には、価値があるのだろうか?ということを語ります。
痛烈です・・・(!)
身銭を切る人とそうでない人をタレブはレビューしてくれています。
身銭を切らない人々 | 身銭を切る人 | 他者のために身銭を切る(魂を持って行動する)人々 |
---|---|---|
(アップサイドを自分のものにし、ダウンサイドを他人に押し付ける) 例:官僚、政策通 |
(ダウンサイドを引き受け、自身の身のリスクを負う) 例:市民 |
(他者普通の価値のためにダウンサイドを負う) 例:聖人、詩人、戦士、兵士 |
コンサルタント、読者層 | 商人、ビジネスマン | 予言者、哲学者(近代以前の意味) |
国とつながっている大企業 | 職人 | 芸術家、一部の職人 |
企業幹部(スーツを着ているタイプ) | 起業家 | 起業家、イノベーター |
システムをいじるばかり者、理論家、データ・モニターや経済研究の専門家 | 実内実験や実地試験の専門家 | 犠牲を引き受ける仮説を立てて、リスクを冒す正真正銘の科学者 |
中央集権国家 | 都市国家 | 地方自治体 |
編集者 | (一部の)編集者 | 本物の作家 |
“分析して”言うタイプのジャーナリスト | 投機家 | リスクを取った、建設的な助言を伴う真正の正義を語るジャーナリスト、活動家 |
政治家 | 活動家 | 反体制者、革命家 |
銀行家 | ヘッジ・ファンドのトレーダー | (低俗な商談には手を出さない) |
貴族、名誉、式典、思索、イギリス式エリート、英国上院、外交官のようなマクロの損を考えぬ連中 | 自分の思考や意見を検証可能なかたちで提示する知識人 | 自分の主張に全存在を賭けたソクラテス、イエス・キリスト、アイン・ランド、マルティン・ルター、ジャンヌ・ダルク |
これらの区分を見つめていくと、実はブルシット・ジョブの存在がちらつきます。
ブルシット・ジョブの定義とは、「本人ですら、その仕事に意味があるとは思っていないにもかかわらず、社会的には存在している“ふり”をしている職業」とされます。これは、故デヴィッド・グレーバーが提唱した概念で、現代の先進国で働く多くの人々が、実は「意味のなさ」に苦しみながら仕事をしている現状を明らかにしました。
この定義をタレブの「身銭を切らない人々」の列と照らしてみると、驚くほどの一致が見えてきます。
たとえば、無責任な評論家、システムをいじる専門家、“分析するだけ”の論評化──こうした人々は、しばしば自分の仕事の成果に責任を負うことなく、誰かのリスクの上にあぐらをかいています。
つまり、ブルシット・ジョブとは、リスクを取らないことによって成立している“虚構の役割”でもあるのです。
それでは、なぜこのような仕事が蔓延し続けるのか?
それってそもそもの目的意識ではなく、手段を目的として捉えてしまっている認識の構造の問題も多分にあるように感じます。

身銭を切ることが人生を作る!?
そもそも、人生とは犠牲とリスクテイクのことに気づきます。
そして、同時にリスクを引き受ける条件を知ります。
それは、身銭を切って、当事者になること。この他ないのです。
取り返しが利くかどうかにかかわらず、実害をこうむるリスクを背負わない冒険は、冒険とは呼べない。
これからの時代には、「変化」をいかに前向きに捉えて、受け入れて、その上で自らも変化をし続けることが、何よりの生存戦略であるとさまざまな書籍でも語られています。
そしてタレブもその一人。
前著『半脆弱性』での主張、システム全体が堅牢であるためには、システムを構成する要素(再生可能で代替できうるとした場合)に脆さが必要になる、というものと今回の身銭を切ってものごとに取り組むというものが、互いに響き合います。
人はその個体に人生があり、終りがあるからこそ、全体として変化をしていけるのです。これが例えば不老不死であった場合には、進化をすることができずに、何らかの事故や事件、環境のせいで、絶滅するでしょう。
変容していくというのは、全体のことを考えること、そして一人ひとりがその中に組み込まえているということに気づくことでもあるのです。
身銭を切らずして得るものなし。
このマインドセットをもって、自らのプロジェクトや組織、何でも良いですが、“持ち出し”で取り組んでみるはいかがでしょうか!?
私たち一人ひとりは世代間を超越することができない運命です。たった80年そこらの人生の中で、何かをなすにはあまりにも短い時間しか提供されていません。
でも、それを受け入れながら、覚悟を決めて、身銭を切りながら、何らかの取組をしていけることを見つけられること、それが、幸せを実感することにももしかしたらつながっていくのかもしれません。
変容、トランジションについては、こちらの1冊「変化こそ最上位戦略!?『Master of Change 変わりつづける人』ブラッド・スタルバーグ」やこちらの1冊「【真の「成長」とは!?】トランジション ――人生の転機を活かすために|ウィリアム・ブリッジズ」もぜひご覧ください。変わり続けていくことを肯定的に捉えることができます。


まとめ
- 身銭を切ることしかない!?――それがフェアに現場に「参加する」という意味です。
- 考えよりも実践を!?――何らかの目に見えるバリューでなくてはなりません。
- 身銭を切ることが人生を作る!?――人生とはそうしたリスクテイクの連続です。
