- 自分という存在を見つめるには、どんな事が必要でしょうか。
- 実は、歩くことかも。
- なぜなら、それは意識を自然にシンクロさせる行いだから。
- 本書は、歩くということについて知り、感じ、実践するための1冊です。
- 本書を通じて、私たちが毎日当たり前のようにしている歩くの解像度を上げることができます。

歩くということは?
前回の投稿「ただひたすら歩く、それは自分に還ること!?『歩くという哲学』フレデリック・グロ,谷口亜沙子」に続きまして、今回もこちらの1冊『歩くという哲学』のレビューを続けてさせていただきたいと思います。
前回の投稿では、「歩くという哲学」という書籍の解説を行いました。この本は「歩く」という行為を深く掘り下げ、人間の本質に迫る1冊です。
人類は2足歩行という進化によって脳を発達させ、「考える」という能力を獲得しました。つまり私たちは「歩き考える生き物」なのです。本書はそんな当たり前の行為の解像度を上げることを目的としています。
歩くことで、私たちは「内と外」という区分に変化をもたらします。歩きながら絶えず変化する外の世界を受け入れていくプロセスは、内と外の境界線を曖昧にし、自然との調和を生み出します。
山歩きでは、自信のある人ほどゆっくりと一定のペースで進みます。これは自分の体力や技術、山の環境を理解しているからこそ。一方、自信のない人はペースが乱れがちです。この対比から、人生においても真の対義語は「速さ」ではなく「焦り」であることに気づかされます。
また、歩くことは「ネガティブ・ケイパビリティ」の考え方にも通じています。変化の激しい時代に自分を見失わず、現状をしっかり認識して着実に変化を取り入れていく姿勢です。
さらに、歩き続けることで自分の身体と限界を知り、それが安心と自由をもたらします。都市やデジタル社会で拡張された意識感覚から解放され、原始的な身体感覚を取り戻すことで、「アイデンティティ」という相対的概念から自由になれるのです。
歩くという単純な行為を通じて、私たちは社会的な枠組みから解放され、ただ存在するという本質的な自己に気づくことができるのです。
歩くを通じてみると、自分自身の心を見つめることもできます。
道行きには、さまざまな変化はつきものです。
何があっても「安心」できるということは、「立ち向かうために必要なものが揃っている」という状態を指します。例えば、天気の急変、分かれ道、夜の冷え込みにも対応できるような自分のスキルと経験、それがあれば、心を穏やかに過ごすことができるでしょう。
しかし、上述のような定義では、なかなか1歩前に安心して踏み出すことは難しいかもしれません。なぜなら、外部環境というのは、本来的にはあらゆることが予測不可能で、自分のスキルや経験を余裕で越えてくることが多くあるためです。
「根本的なもの」に身を任せてしまって、とりあえず歩みを進めてみるということも実は大切かもしれません。
そうなると、もうなにひとつ重要なものはなくなり、なにかを推し量り、自己を信頼する必要も消える。
こうしたマインドセットというのは、自分自身に対して向かうベクトルではなく、「他なるもの」に対して向かうものです。
あるいはそうした心持ちの中で、「自己の生存本能」ということも消え去り、自然の中で溶けるような感覚、石、空、大地、木々、すべては贈与された存在として同等のような感覚に陥ることもあるかもしれません。
歩く幸せとは?
自然の中を歩くことは、無我に向かう過程なのかもしれません。
信頼とは、自己にゆだねられたものに、自己をゆだねることだ。
そして、そうした道すがら、私たちは、幸せを感じる瞬間を体験することができるでしょう。
野生の樹の実を口に含むときの楽しみや、そよ風が頬を撫でるような心地よさ。
歩くことによって「全身がひとかたまりのものとして」進んでいく感覚。
それらは、絶えず歩いているからこそ得られる幸福感なのであって、歩みを止めてしまえば、得られる可能性は殆どなくなってしまうものかもしれません。
つまり、幸せとは、ある瞬間や、ある雰囲気が差し出されている時に、その受け取り手となり、それを逃さないことだ。
しかしそれがやってくることを確実に予測することはできないし、準備することは到底できません。
大切なのは、その瞬間が訪れた時に、ただそこにいて、感じるということです。
これは感受性の問題かもしれませんが、「幸福感」というのはそういうものなのです。
幸福は儚く壊れやすいもの、そしてそれは、世界を織り成す無数の糸の中に、黄金の糸を見出すような、純粋な出会いによってもたらされるものです。

自分を見失うために?
歩くということは、自分とともにあります。また、反対に自分を失うことでもあると言えます。
社会の中で暮らしている自分は、他者によってさまざまに規定されます。役割として呼称を与えられることを考えると理解しやすいですが、例えば、社長、部長とか、お父さん、お母さんとか、コーチとか、そうした社会の関係の中で、呼ばれて自分が規定されています。
そして、知らず知らずのうちに、そうした規定の中で自分を逆算的に理解しているモードになっているかもしれません。
でも本当の自分という存在は、そうした役割が無くても自分なわけで、自然の中をただ歩いていると、そうした本来的な自分自身というモードに立ち返るきっかけを提供してくれるはずです。
社会から離れて、あるがままの環境を受け入れている、そういう感覚で自らが満たされていく、自分が息をして、感じているということだけが、行程の中で繰り返し確認できている。
そこには、社会で規定された役割とか、そういうことはなく、ただひたすらに自分があるだけ。
また、そうした感覚が繰り返されているうちに、もしかしたら、上述のような自然を完全に信頼するという感覚の中で、自分の存在さえも自然の中に溶け込んでしまうような感覚ということもあり得るのだと思います。
生存本能さえあいまいになって、自然とともにある状態。
自分を取り戻すためということが大きいですが、逆に、自分を見失うためでもあります。なにしろ、歩いていると、風景が美しすぎて、気が変になるような時がありますから。
自然の存在は偉大でありますが、都市に暮らしている私たちはそこから遠ざかっています。
でも事実、私たちが生まれたのは自然の中であって、DNAに刻み込まれた記憶から、確かに自然が母であるというメッセージを受け取ることができるのです。
自然の中をただひたすらに歩いていく、そういう習慣を持つことは、もしかしたら、自分という存在を再確認しながら、あるいは、再発見、いや、見失って還っていくということを体験できる不思議なものなのかもしれません。
自然については、こちらも1冊「自然で、自分を再起動!?『NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる』フローレンス・ウィリアムズ」をぜひご覧ください。

まとめ
- 歩くということは?――変化の中に自らをなじませていくということです。
- 歩く幸せとは?――ふとした瞬間に得られる発見によるものです。
- 自分を見失うために?――自分というものがわからなくなった先に、なにか大切なことがあります。
