ただひたすら歩く、それは自分に還ること!?『歩くという哲学』フレデリック・グロ,谷口亜沙子

歩くという哲学
  • 歩きましょう。
  • 実は、人は歩き考える生き物なのです。
  • なぜなら、二足歩行という進化によって、人は脳を手に入れました。
  • 本書は、歩くということについて知り、感じ、実践するための1冊です。
  • 本書を通じて、私たちが毎日当たり前のようにしている歩くの解像度を上げることができます。
フレデリック・グロ,谷口亜沙子
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歩くとは?

人を人たらしめているのは、もしかしたら歩くという行為かもしれません。

ひとたび立ち上がってしまったら、人はその場にじっとしてはいられない。

2つの足を交互に進めながら、歩いていくだけです。

ゆっくりいこうとするのであれば、歩くことが最良の方法でしょう。2本の足が地面をしっかりと捉えてさえいれ良いのです。歩く場合のパフォーマンスはただひとつだけ、(すでに小さな頃の特訓の成果により)無意識に埋め込まれている歩く動作を繰り返していくのです。

私たちが、世界を認識するとき、内と外という区分を利用します。

私たち一人ひとりの中に、内があって、それ以外の世界は外です。

そして歩くことで、外の世界の様相が変わり続けていきます。

私たちは確かに存在している外を、絶えず変化する外を、受け入れながら、歩いていきます。

ひょっとすると、歩くということは、外と内との正確な分離状態を、撹拌していく効果を持ちます。

野を越え、山を越えて、私たちは、風景の中に自分の還る場所を見出します。

時間をかけて、その風景を所有し、そして、自分とその風景の境界線を曖昧なものにしながら、自然と不思議な調和を目指していくことができます。

山登りという活動を捉える時、そこには、目的というのは、実際には、明確にはないのかもしれません。

たしかに、写真を撮るとか、美しい景色を見るとか、達成感とかいろんな目的的な言葉があることにはあるのですが、そうした報酬とかのようなハードな山道を越える力にどうも相関がないような気もします。

ただ、自然を感じながら、自然と一体化するという行程をひたすらに感じることを、どこかで求めているのかもしれません。

自信とは?

山歩きに自信のある人というのは、かならず道行きは、ゆっくりになります。

自分のペース、体力、技術、そして、山の環境をよく把握しているからです。

一定のスピードで、淡々と登ることが、最も効率がよく、確実であることをよく理解しているということも言えます。

一方で、自信のない人(そういう人に限って、自信があるように見える)は、ペースが乱れます。

ぐんぐん登っては、かくんと遅くなる。どこかギクシャクとしていて、膝が滑らかではない。

こうした事実を見つめていくと、どうも人生のメタファーとして捉えてもみたくなります。

遅さの真の対義語とは、「焦り」なのだ。

このところ、ネガティブ・ケイパビリティという概念に注目が及んでいます。

変化の激しい時代だから、真っ先に変化に飛びついてみて、自分を失うのではなく、まず現状を詳しく認識しながら、変えるべきところ、変えないことを見極めて、しっかりとでも着実に変化を取り入れていくような、そんなスタンスを歓迎するかのようです。

歩くということは、ネガティブ・ケイパビリティにも通じることがあります。

歩いている人にとっては、もっと自然(外)そのものが立ち現れてくるような感覚を覚えることができるのです。それは世界の解像度であり、世界そのものが、自分のなかで重みと厚みをしっかりとますような、そういう感覚です。

味わいや、色や、匂いがぎっしりと詰まったその風景を、わたしたちは、自分の身体で煎じていく。

自然はあまりにも広大で、これに浸ることで、身体がすみずみまで満たされる感覚を覚えることができます。

ネガティブ・ケイパビリティについては、こちらの1冊「大切を見極めよ!?『「すぐに」をやめる ~ネガティブ・ケイパビリティの思考習慣~』沢渡あまね」もぜひご覧ください。

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自分とは?

歩き続けるということは、自分の身体を知ることにもなります。

同時に、自分の限界ということもありのまま理解する機会を提供してくれるでしょう。

山歩きでも、散歩でも、自分の身体を超えることは到底できません。自分を知るということは、安心と、そして自由を提供してくれます。

この場合には、人工的なものから解放されて、単純な喜びを味わいのではなく、自己の限界としての自由を見出すことになる。

都市やデジタルの中で、絶えず拡張されている意識感覚を払拭して、本当の身体感覚に戻るような、そこから改めて人間を再構築していけるような、手応えを歩くということは提供してくれます。

歩いていく中で、わたしたちに眠る原始的な感覚が目覚めます。

欲望は粗野で圧倒的なものとなり、霊感に満ちた弾みが生まれる。

歩くことにしたがって、私たちの体には、生命という名の芯がまっすぐに通り、自分のすぐ足元から絶え間なく吹き出し続けるからです。

人は、歩くことによって、そもそもの「アイデンティティ」という概念自体から、自由になることができます。

それは、わたしたちを縛りつける社会的な義務でもあり(そのために、自分の肖像に忠実であろうと、自分に無理をかけてしまう)、だとしたら、なにものかであるということは、本当は我々の両肩にのしかかっているだけの、くだらないフィクションではないだろうか。歩いている時に得られる自由は、誰でもなくあれることの自由だ。なぜなら、歩いている身体には歴史などなく、ただ太古から続く生命が流れているだけだからだ。わたしはただ二本の足のついた一匹の獣であり、大木のあいだを通る物理的な力であり、一閃の叫びにすぎない。

それは自然との一体化かもしれないし、自己という概念を再発見しなくても良いという発想かもしれないし、本当の自分なんてなかったという感覚かもしれません。

たしかにここにある自分を素直に受け入れていくことは、「アイデンティティ」という一種の相対的な概念を払拭してくれます。

ただひたすらに自然の中を歩くということを通じて、私たちが日頃信じている社会や環境に定義されて縛られる自分を解き放ち、ただ動物としての身体感覚を持った自己の存在がこれまでもたしかにあった・・・と、気づくのです。

また、次回も本書『歩くという哲学』を通じて、わたしたち人とは何なのかについて、触れていきましょう。

まとめ

  • 歩くとは?――内と外を隔てている境界線を曖昧にします。
  • 自信とは?――内と外の調和を知っていることです。
  • 自分とは?――ただここにあること、そして、それはバーチャルなものから解放されている状態です。
フレデリック・グロ,谷口亜沙子
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