自由に散歩、できますか!?『散歩哲学:よく歩き、よく考える』島田雅彦

散歩哲学:よく歩き、よく考える
  • 豊かな時間を見出すためには、どのようなきっかけが必要でしょうか。
  • 実は、自然との対話かも。
  • なぜなら、自然との対話は、心と向き合うことの原点にあるからです。
  • 本書は、散歩という習慣を持ち、自然(心と体)とシンクロすることを説いた1冊です。
  • 本書を通じて、都会の中で、自分を感じる瞬間について、ヒントを得ることができます。
島田雅彦
¥1,078 (2025/02/21 20:51時点 | Amazon調べ)

移動の自由とはなにか?

私たちは、「移動の自由」が保証されているということを、よく考えてみる必要があるのかもしれません。

「移動の自由」は、たとえ国家や社会、支配者からそれを制限されようとしても、決して譲り渡してはならないものです。

人はそもそも移動をする自由と権利を持ち、そして、移動をするからこそ、人たる特徴を享受できるとも考えることができます。

豊かな実りを受け取ったり、あるいは、危機から逃れたり、自分と啓発するような刺激を受け取ったりと、移動によってもたらされる恩恵は、実は計り知れないものがあります。

散歩はその権利と自由を躊躇なく行使するための訓練となる。

自分の気の赴くままに、ただひたすら歩いてみるという散歩をあえて選択する時、私たちの感覚はなにか目的的に縛られている状態から1歩外へ抜け出すことができるのかもしれません。

仕事や、家事や、その他のもろもろの活動は、日常の中で目的を帯びます。

なにか目的を目指していなければ、非難されてしまうような被害妄想、あるいは、目的がないことに取り組んでしまっているという無意味な感覚などに追い詰められて、日常の中を生きていると、無目的にただただほっつき歩くという感覚は、反対にとてつもない非日常体験になります。

暇と退屈を忘れては人として豊かさを得られないということを説いたのは、國分功一郎さんのこちらの1冊「【パンだけでなく、バラのある生活?】暇と退屈の倫理学|國分功一郎」ですが、そうした考えに通じるのが、散歩の効用です。

暇人は、たしかに孤独かもしれません。

でも、そこには、自分の気持に素直でいられるという、本来的な自分の自由を得ることができます。

自然を感じよう?

目的もなく、ほっつき歩くことをペルシャ語では、「チャランポラン」というそうです。

暇と退屈を自由気ままに使いこなすということは、案外難しいものです。

ブルシット・ジョブに慣れすぎてしまって、外部から目的(クソ仕事だとしても)を提供されなくては、自らの身体や思考までもが動かないそんな現代人にとって、何をしてもいいし、何もしなくてもいいという時間ほど、過ごし難いものはないかもしれません。

いっそ、人の手を煩わさなくてもいい仕事をすべて生成AIに押し付けて、空いた時間に散歩にかまけるのが最も賢い選択となるのではないか。

外を歩いていてもスマホを手放すことができない私たちは、少しのリハビリが必要かもしれませんが、それでも、自由気ままな感覚の中で、ただひたすらにほっつき歩くということを行って見ることができれば、もしかしたら、私たちが進化の過程で強化してきた「野生の感覚」というものをもう一度、呼び起こすことも可能かもしれません。

「なんとなく、こっちの道のほうが気持ち良い気がする」「こっちに行くと、よい感覚がある」そういう感覚って、実はとても大切です。

考えるのではなく、身体で感じて、無意識の領域からヒントを引き出すような、そういう行為によって、私たちの感性は本来持っていた能力を解放していきます。

ある時、老婆がタンポポの前に立ち止まって、孫に話しかけるように「こんなところに咲いていてご苦労さまね」と話しかけるのを見たことがあるが、これこそが最も原始的な華道なのではないのかと思った。花器に綺麗に生けることだけでなく、自然の方にこちらから出向いていき、しばし、野に咲く花を愛でるということをしているのだから。

鈍感になった感覚でも、自分の感性を使って都市を散歩してみて、小さな自然を見つけたり、あるいは、公園の緑に触れる時に、「この場所はよい」「この木や岩はなにか他とは違う」というような発見をわたしたちにさせてくれるようになります。

こうした自然との対話こそが、人の思考の原点であり、そして、もっというと精神世界の原点、つまり宗教観の原点でもあるのです。

島田雅彦
¥1,078 (2025/02/21 20:51時点 | Amazon調べ)

感性を研ぎ澄ませ?

自然の中に身を置くことができれば、自ずと自然との対話を始めることができます。

木々が発するメッセージを受け取ったり、あるいは、鳥や動物の気配を感じることができたり、山河の四季の移ろいに敏感に築くことができたり、そうした感性を発動していることは、わたしたちにとってとても良い刺激となり、心と体を癒やします。

人はいつでも宗教的な時間を持つことができる。神に向かう回路が開ける者は強い。最終的にめげないのは、超越的なものに直談判できるコネを持つ者である。

自然は、それがそのまま思想にもなるし、そしてだからこそ支えにもなります。

教祖の命令に従わなくても、教団に献金しなくても、自分専用の神を持つことができる。

人が歩行という能力を爆発的に向上させるのに費やす期間は、約2年だそうです。つまり2歳くらいには、歩いていど自由に歩いたり走ったりすることができるようになります。

そして、この時期に同じように爆発的に向上するのは、言葉を習得する能力です。

この2つの能力は相乗効果で発達し、わたしたちに、ものごとを「高度に認知する」という能力をもたらすことができます。そしてその「認知能力」こそ、人間が人間たるゆえんでもあるのです。

一説には、記憶力や判断力というのは、人間の脳の機能として突出したものではないという研究もあり、人間の人間たるゆえんは、「認知」にあるという見方もできるのです。

幼児が歩行訓練に費やす約二年間は、言語を獲得する時期と重なるので、二つの能力は相乗効果で発達する。歩行能力の獲得によって、好奇心が一層刺激され、満たされる。また移動の自由によって、さまざまな他者との出会い、外界とのコミュニケーションの機会がもたらされ、言語の習得が促進され、知性の拡張が爆発的に起きるのだ。

私たちは、歩きながら、そして、外界と適切にコミュニケーションを取りながら、自分たちを自然に組み込まれたプログラムによって数年で発達させる能力を持っているとも捉えられるでしょう。

歩くことをやめれば、それは退化につながるということです。

いくつになっても、歩き、ものごととの対話を重ね、感性を養うことは尽きないのです。

まとめ

  • 移動の自由とはなにか?――人間の権利であり、大切な営みです。
  • 自然を感じよう?――移ろいゆく自然からの膨大な情報が、私たちを癒やします。
  • 感性を研ぎ澄ませ?――自然との対話を通じて、私たちが持つ認知の力を解放しましょう。
島田雅彦
¥1,078 (2025/02/21 20:51時点 | Amazon調べ)
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!