- いま、社会では「偶然性」がなくなっています。
- 実は、そうした遊びの機会が私たちから奪うものは、相当に大きなものがありそうです。
- なぜなら、遊びとは、すなわち学びの機会であるはずだからです。
- 本書は、遊びと学びと、そして、利己と利他を接続する1冊です。
- 本書を通じて、人が本質的に学ぶことを考えるヒントを得ます。
偶然性がもたらすものとは?
偶然性という言葉を聞いてどんなイメージを持つでしょうか。
私たちの身の回りにどれだけの偶然性がまだ残されているか・・・
本書の問いかけは、そこから始まります。
昨日と同じような1日が始まる時、私たちは、生きている実感を取れ高えることができるのか。たしかに、生きていくうえで、偶然性というのは、極力ない方が、生存本能的には理想なのかもしれません。
しかしマズローの欲求段階を駆け上がる私たちにとって、単調さは、時に、生きる意味を色あせさせるものとなります。
情報化社会の中で、実社会の挙動がデータ化されて、数式化され、予測され、「最適な」情報接点を提供することが可能になりました。
「最適化」された世の中で、私たちは、大きななにかにコントロールされているような感覚の中で生き続けているようです。
大人だけではなく、子どもにとってもこうした社会の変化は、強い影響をもたらしているでしょう。
子供の遊びの観察を重ねるたびに、最近の遊び場の空間や道具に、どこか違和感を覚えはじめ、懐疑的になっていったのです。
公園という空間を考える時、私たちがどのような社会を目指しているかを知ることができるのかもしれません。
まず、公園は「共有空間」としての性質を持っています。誰もが利用でき、世代や社会的立場を超えて人々が交わる場所です。その設計や管理の仕方には、その社会が「共有」や「公共性」をどのように捉えているかが反映されます。
例えば、ベンチの配置一つを見ても、人々の交流を促すような向かい合わせの配置なのか、それとも個々人が静かに過ごせるような配置なのかで、その社会が重視する価値観が見えてきます。
また、公園には「優先順位」も表れます。
子供の遊び場を重視するのか、高齢者の憩いの場を重視するのか、それとも自然保護に重きを置くのか。限られた空間の使い方には、社会がどの要素を大切にしているかが表れます。
さらに、公園の維持管理の方法からも、社会の特徴が見えてきます。
行政主導なのか、地域コミュニティが関わっているのか、あるいは民間企業が参画しているのか。これは公共サービスに対する社会の考え方を反映しています。
公園は小さな社会の縮図とも言えるかもしれません。その空間がどのように設計され、利用され、管理されているかを観察することで、私たちの社会が目指している方向性や、大切にしている価値観が見えてくるのではないでしょうか。
現代の公園における「安全性の追求」と「子どもの成長に必要な体験」のバランスについて、考えてみましょう。現代の多くの公園では、事故防止や管理責任の観点から、遊具や空間が厳密にコントロールされる傾向にあります。
具体的には、遊具の高さを制限し、地面を完全にクッション材で覆い、木登りができないような樹木を選定し、水たまりができないような排水設計を施し、虫や小動物が住めないような植栽管理を行うといった具合です。
しかし、このような過度な管理は、子どもたちから重要な学びの機会を奪っているかもしれません。
例えば、自分で高さを判断したり、バランスを取ったりする経験が制限されることで、自己の能力と危険性を適切に判断する力が育ちにくくなります。
また、すべてが「正しい使い方」で規定されていると、物事を違う視点で見たり、新しい遊び方を発見したりする機会が減ってしまいます。さらに、完全に管理された環境では、季節の変化や天候による変化、生き物との偶発的な出会いなど、自然界の不確実性や多様性を体験することができません。
加えて、予期せぬ状況や小さな困難に直面する機会が減ることで、自分で考えて解決する力が育ちにくくなる可能性も懸念されます。
他者との関係性?
私たちの未来を担い手である子どもにとっての空間を考えることは、未来を考えることになると思います。
本書は、そこに「利他」というファクターを用います。
遊び場という誰もが日常で関わる空間を舞台に、いかにして利他が生起するのかを考えたいのです。
利他という概念は、一人ひとりのつながりを考えることになります。自分だけではなく、他者、つまり社会全体に視点を持つ人を育むために、「公園」という社会の縮図はどのように機能していくのが理想なのでしょうか。
なぜ利他か?
それは、本書の著者・北村匡平さんが、学ぶことについて、「ほかなるものと相互にポテンシャルを引き出し合うこと」を大切にすることを示唆しているからです。
一方的に、なにかものごとや結果が与えられるのではなく、自分から挑戦したり、活動してみて、得られることの中で、人は、学びを深めていきます。つまり、経験をしながら、自分を知ることが学びであるとも言えるのです。
そうした経験の質と量をいかに担保することが重要であると考えられますが、「効率化、管理化、リスク回避、安全性」などという概念を強調するがあまりに、社会が子どもから可能性を奪ってしまっているのではないか、と危惧されます。
遊びとはなにか?
エデュケーション(教育)とプレイ(遊び)は、一見すると正反対のもののように見えます。エデュケーションは、目標があって、計画的で、結果が求められます。
教室で勉強するように、「これを学びなさい」という方向性が明確です。一方、プレイは自由で、その時々で変化し、結果を気にしません。公園で遊ぶ子どもたちのように、「何が起きるかわからない」というわくわく感があります。
でも、実は面白いことに、この正反対に見える2つは、子どもの成長の中で深く結びついているのです。
例えば、公園で木の葉を見つけた子どもが「どうして葉っぱの色が違うのかな」と考え始めるとき、そこには遊びながら学ぶ姿があります。また、理科の実験で予想外の結果が出たとき、子どもたちは遊びのように好奇心を持って新しい発見に夢中になります。
ところが最近、この「正反対だけど実は結びついている」という関係が崩れてきているように感じます。公園は安全第一で管理され、子どもの予想外の行動を制限します。
学校の勉強も、正解を求めることが重視され、自由な発想が生まれにくくなっています。
つまり、エデュケーションもプレイも、「予測できること」「管理できること」ばかりが重視されるようになってきているのです。
本来、子どもの成長には「これは正しい」という確かさと、「どうなるかな」という不確かさの両方が必要です。
エデュケーションとプレイは、違いながらも互いを補い合って、その両方を子どもたちに提供してきました。今、私たちに求められているのは、この2つの持つ違いを大切にしながら、どちらも子どもの成長に欠かせないものとして守っていくことなのかもしれません。
公園は実に不思議な、そして魅力的な空間である。
道具や空間のあり方をコントロールすることで、子どもたちの動きや喜びが全く違うし、知らない子ども同士の接点やかかわり合いということもまったく違ってくるのです。
そして、その「設計」は人に委ねられているのも印象的です。私たちはわたしたちに何を経験し、どんな社会を、人を目指していってほしいと願っているのか、公園をみているとよくわかるような気がします。
1)人と遊びの分断
2)危険性の排除
3)管理と公平性
これらが際立つ従来の「公園」で成長することは、もしかすると学びの可能性を排除して、長い目で見て、いかがなものか、という論点を忘れてはいけないのかもしれません。
危ないものは遠ざけると逆に危ない。
近くにあってその危険さを体が実感している方が危なくないんです。
これはとあるプレーパークで活動されている支援者の方の言葉だそうです。
すべてをコントロールすることは、不可能なはずなのに、それを目指してしまうことで、不都合が逆に起こってしまうのかもしれません。
そして子どもは素直です。いくら豪華で大きな遊具で多機能であっても、画一的な遊びを押し付けてくるものに対して、子どもはすぐに飽きてしまうのです。
子どもはすでに知っているのかもしれません。自分のポテンシャルがどうしたら引き出されるのか、そして、それはどういう体験によってもたらさせるか。
常に、限界ギリギリのところをトライして、時に怪我をしたり、失敗をしたりしながら、自分という者を他者や自然の中に見出していく、そういう連続性こそが、学びになっていくのでしょう。
遊びについてはこちらの1冊「【本気で楽しめ!?】プレイフル・シンキング:働く人と場を楽しくする思考法|上田信行」もぜひご覧ください。

まとめ
- 偶然性がもたらすものとは?――予期せぬ自分との出会いです。
- 他者との関係性?――人は、他者(ものごとを含む)相互関係の中で、学びを得ていきます。
- 遊びとはなにか?――絶え間ない行動と経験を誘発するものです。