- よく生きるということは、どういうことなのでしょうか。
- 実は、いかに経験の能力を守ることができるか?ということかもしれません。
- なぜなら、経験により自らを律し、そして、ときにただひたすらにものを享受するということも肯定することができるかが、人の生の在り方に関わっていると考えられるのです。
- 本書は、國分功一郎さんによる人にとっての“楽しみ・快”を深く考えるための1冊です。
- 本書を通じて、現代社会が人に課す暗部をえぐります。

暇のその先へ?
國分功一郎さんの以前の著書『暇と退屈の倫理学』(投稿はこちら「【パンだけでなく、バラのある生活?】暇と退屈の倫理学|國分功一郎」)に呼応する1冊です。
暇と退屈の國分功一郎さんは、次のような論点を提起しました。
必要というのは、人が生きていくためには、なくてはならない最低限のものごとを指し示すものです。そうした観点から、「贅沢」というのは、不必要であるものとされます。
例えば、豪華な食事、時間を使う旅行、酒やたばこ、ふんだんに装飾された衣服などなど、こうしたものは、人がただ生きていくことを考えた時、必ずしも必要であるとは言えません。
つまり、もっと強い言葉を使って言えば、贅沢とは無駄である。
でも、生存に必要なものだけって、本当にそれで幸せでしょうか・・?という疑問が生まれます。
そうした素朴な疑問に答えるのが次のような考え方です。
私たちは、ひとりひとりがもっと“浪費家”になって、ものを享受して、楽しんでもよいはずなのに、“消費者”になるように仕向けられて、終わりのない「記号消費」のゲームに、引きずり込まれています。
では、どうしたらいいか?
それは、ものを受け取り、ものを楽しめるようになれば良い。
そうした楽しみを得ることによって、この記号消費のゲームの悪循環から抜け出せることができる。
そして、ひとりひとりのこうした工夫が、このゲームに依存体質の社会を変えるきっかけになる。
そのような趣旨でした。
そして、今回の1冊『手段からの解放―シリーズ哲学講話―』において、國分功一郎さんは、さらに上記の考えを深くすすめるべく、“楽しみ”とは何か、ということに迫っています。
4つの快さとは?
“楽しみ”を考えていくために、國分功一郎さんは、哲学者・カントの思想を下敷きに、解像度を上げていきます。
ちなみに、カントは、18世紀を代表するドイツの哲学者で、その思想は現代哲学にも大きな影響を与え続けています。彼の思想の核心は以下のようなものです。
認識論では、人間の認識には「アプリオリ(先験的)」な枠組みがあると主張しました。
時間・空間という感性の形式や、因果関係などの悟性のカテゴリーは、私たちの経験に先立って心の中にあるとされます。また、「物自体」と「現象」を区別し、私たちは物事の本質(物自体)を直接知ることはできず、現象としてのみ認識できると説きました。この考えは「コペルニクス的転回」と呼ばれ、認識における主観の能動的役割を強調しています。
道徳哲学では、「定言命法」という普遍的な道徳法則を提唱しました。その基本形式は「自分の行為の格率が普遍的な法則となることを意図できるように行為せよ」というものです。これは、個人の利害や感情に左右されない、理性に基づく道徳の基準を示そうとしたものです。
さらに、人間を「目的それ自体」として扱うべきだと主張し、人間の尊厳と自由を重視しました。この考えは現代の人権思想にも大きな影響を与えています。
カントは理性の限界を認識しつつも、理性を通じて私たちが到達できる確実な知識や普遍的な道徳があると考えました。この姿勢は、理性への過度の信頼と懐疑の間で均衡を取ろうとした点で、啓蒙思想の集大成とも評価されています。
人類史上最も影響力のある哲学者の一人として、カントの思想は現代でも倫理学、認識論、形而上学など、様々な分野で議論され続けている人物です。
話を戻して、國分功一郎さんの下敷きをみてみましょう。
『実践理性批判』 欲求能力 | 『判断力批判』 感情能力 | |
能力の高次の実現 | ② 端的に善いもの: 道徳的存在者としての人間の目的 形式(定言明法) | ① 美しいもの: 目的なき合目的性 崇高なもの: 人間性という目的 |
能力の低次の実現 | ③ 間接的に善いもの: 設定された目的にとって 手段として有用なもの 内容(生存、安楽な暮らし等) 目的―手段連関 | ④ 快適なもの: 享受の快 |
表頭の2つのキーワード『実践理性批判』 と『判断力批判』 は、それぞれ以下のような意味合いです。
『実践理性批判』:「自分がされて嫌なことは、人にもしてはいけない」というような道徳の基準を、感情ではなく理性で考えようとするアプローチです。例えば、有名なところとしては、「自分の行動が、みんなの規則になっても良いかどうか考えなさい」という教えです。人間には自由な意志があり、それゆえに道徳的に行動する責任があるという考え方の根本になります。
『判断力批判』:「美しい」と感じることや、「生きもの」について考えたアプローチです。なぜ私たちは花を見て「きれい」と思うのか、どうして生き物は目的を持っているように見えるのか、を考えるものです。「知ること」と「正しく行動すること」をつなぐ橋渡しとしての考え方です。自然の中には人間の理性だけでは説明できない不思議さがある、ということを教えてくれます。
それぞれの象限をみていくと、次のようなことが見えてきます。
- 美しいものと崇高なものからの快(①の象限)
- 「美しい」と感じるよろこび: 例えば、きれいな花を見て「ああ、なんて素敵なんだろう」と感じる気持ち。特に理由はないけれど、「これって、こうあるべきだよね」と自然に思える感覚です。
- 「崇高」を感じるよろこび: 大きな山や広い海を見て「すごい!」と感動する気持ち。この時、人間としての大切な使命(正しく生きることなど)を思い出すような特別な感覚です。
- 善いことからの快(②の象限)
- 例えば、困っている人を助けて「よいことができた!」と感じる気持ち
- 自分で考えて、積極的に行動して得られるよろこび
- 「こうすべきだ」と考えて、実際にそれができた時の達成感
- 欲求が満たされる時の快(③の象限)
- お腹が空いている時に食べ物を食べられる時の喜び
- のどが渇いている時に水が飲める時の安心感
- 体が疲れている時に休める時の気持ちよさ
- 受け身の楽しみの快(④の象限)
- マッサージを受けている時の気持ちよさ
- おいしいものを食べている時の幸せな気分
- 心地よい音楽を聴いている時のリラックスした感覚
ここで唯一、仲間はずれがあります。それは④の快です。
4つの快の対象の中で、快適さだけが、目的からも合目的性からも自由である。
ここで、合目的性という聞き慣れない言葉があるので、補足してみましょう。
「合目的性」というのは、「なにかの目的のために、ちょうどよくできているように見える」という感覚のことです。想像してみてください。きれいな花を見た時のことを・・・
「この花って、誰かが『きれいだな』と思うために、わざとこんな形に作ったみたいだね」 でも実は、花は誰かが設計したわけではありません。自然にこうなったんです。
カントは2つの合目的性を考えました。
- 美しさの合目的性: 「この花の形、色、香り…なんだかすべてが『そうあるべき』ように見える!」 でも実は、そうである「目的」は特にないんです。ただ私たちがそう感じるだけ。 これは「目的なき合目的性」と呼ばれています。
- 生き物の合目的性: 「鳥の翼って、空を飛ぶためにぴったりの形をしているね」 「木の葉っぱは、日光をたくさん集められるように並んでいるみたい」 まるで誰かが「設計した」みたいに見えますが、実はそうではありません。
カントは、言います。
「私たちは自然を見るとき、『目的があるみたいだな』と感じずにはいられない。でも実際には、誰かが目的を持って作ったわけではないんだ。それでも、私たちはそう考えることで、自然をよりよく理解できる」
これが「合目的性」の基本的な考え方です。難しい言葉に聞こえますが、要するに「目的があるように見えるけど、実は特に目的はない」という不思議な感覚のことなんです。

生を取り戻すには?
ちなみに、欲求能力というのは、次のような特徴をそれぞれ指します。
欲求能力は人間の心の基本的な働きのひとつです。以下の1と2を比較してみてください。
- 下級の欲求能力:
- 感覚的な欲求に関わるもの
- お腹が空いたら食べたくなる
- 疲れたら休みたくなる
- 快いものを求め、不快なものを避けようとする
- 感情や傾向性に基づく
- 上級の欲求能力:
- 理性的な意志に関わるもの
- 「こうすべきだ」という道徳的な判断
- 理性的に考えて行動を選択できる
- 感覚的な欲求を超えて、正しいことを選べる
カントは、とくに低次の欲求のときになんらかの目的のため(生存とか、安楽な暮らしとか)に駆り立てられているといいます。それらの目的に有用なものを手段としてみなすことをします。
一方で、受動的と呼ばれる快にあるとき、私たちは、目的に駆り立てられることから逃れられています。嗜好品を楽しんでいるときなどは、そうでしょう。(お酒でも、酔うために飲むシーンなどは異なりますよ!)ただただ、享受することにとどまれているということになります。
我々は目的―手段連関から自由になっている。だから病的ではない。
カントは、人間が理性に従って、自分自身を道徳法則に従わせるということに、病的な状態からの脱出ができるぞ!と語りました。そして、國分功一郎さんは、もう1つ、別のルートの存在を指摘します。
それが、ただただ快楽を享受するという方向性です。カントは、こうした方向の存在を示唆しつつも、これだけのために生きることは肯定しませんでした。
自分はこれが好きなのだ!と語れる人は、おそらく、享受の快の受け取り方をよくよく知っているひとでしょう。そして、そういう感覚にあるとき、私たちは、特定の目的から距離をおいて、病的にならずに、“楽しい”状況をただひたすらに受け取ることができるのかもしれません。
國分功一郎さんが、現代社会に対して問題提起するのが、社会やひとは、自らを本来であれば、享受の感覚を持つものであるのにもかかわらず、生命を第3象限=目的的にある、ある意味機能的で、機械的なニュアンスを含むものとして、自らを陥れているのではないかということです。
そしてこうした状況から脱出するためには、「習慣」にヒントを見出します。
自分が理性を働かせて道徳法則に則った判断をして自分を俯瞰してみたり、あるいは、享受をただひたすらに受け取ることを良しとすること。これらには、「自分」という主体の形成があり、そのためには、何かを繰り返し行っていくということ、つまり「反復」が関わっているとするのです。
習慣なき生は主体なき生であり、主体なき生は経験の能力を失っている。
現代は、残念ながらひとから反復を奪っていきます。新しい需要、新しい目的、新しい夢を消費させようと、圧力をかけてくるのです。でもそのように絶えず「次のミッション」に駆り立てられる生き方というのは、本当に人間的であるのか?ということを考えてみる必要がありそうです。
まとめ
- 暇のその先へ?――人は何に“楽しみ”を見いだせるかの解像度を上げてみましょう。
- 4つの快さとは?――目的によらない快のタイプのあることに自覚的になりましょう。
- 生を取り戻すには?――習慣という反復により、感性を磨き、従ってみることです。
