- どうしたら、よりよく生きるヒントをえられるでしょうか。
- 実は、当たり前を疑う視点を得ることかもしれません。
- なぜなら、哲学史そのものが当たり前を疑い続けたものだからです。
- 本書は、よりよく生きることを考える1冊です。
- 本書を通じて、社会の当たり前って、結構かわるんだ!ということを知ります。
哲学史を振り返ると?
本書は、1冊を通じて、哲学の論点の歴史を振り返ることができます。
デカルトから現代までの哲学史を俯瞰しています。
哲学史とは、すなわち、「○○主義から××主義への移り変わり」であると言えるわけだが、それぞれの主義を擬人化して対話させてみると、ひとつの傾向がはっきりと見えてくる。それは、どの主義も、全時代の主義を「はぁ?」とミモフタモナク否定していることだ。
合理主義は、宗教家に対する疑いから生まれました。理性の力を信じて、合理的にものごとを考えていこう!だから、理性(認識)の機能の限界についてしっかり考えていくべきでは?という論点を展開しました。
そして、実存主義は、理性の機能や限界なんか調べたって、人間についてわかるわけない!人間は機械じゃないし・・・。もっと人間が、「自由で主体的な意志を持った現実の存在(実存)」だという前提で考えるべきなんじゃないか?と、全時代を否定します。
さらに、構造主義は、人間が自由で主体的な意志を持っていることについて、疑いました。人間の考えや行動なんて、目に見えない「構造」に支配されていることを説きました。同じような概念や言葉を運用しているのは、それが共通した何か大きなもの(=「構造」)の影響を受けているので、それを調べよう!
そしてそして、最も現代に近い領域としてポスト構造主義(構造主義の次という名前なので、まだ、名称が確定していないほど現在進行系である)では、見えない構造をさらに否定します。目に見えない真理や構造を認めることなんて、不可能なはず。それを完璧に把握することも抜け出すこともできない。構造を知ろうとする人間の営み(哲学)は、いっさいがムダだから、やめてしまおう。
つまり、最新の哲学的?思考というのは、以下の論点まできています。
(1)人間は好む好まないにかかわらず、なんらかのシステム(社会、価値観や分別の体系)の中に捕らわれている。人間は、そのシステムが提供する範囲の中でしか「思考」も「行動」も「欲望」もできない!
(2)したがって、人間がシステムを超えることはできず、システムの外側に出ることもできない。人間は、システムの枠を超えた「普遍的な真理」を得ることはできず、システムが提供する枠組みの中でグルグル回り続けるしかないのである!
まず、重要なのは、哲学の歴史は、自己否定をしながら、論点を磨いてきているということです。
次の否定というのは、どういった論拠に生み出されてくるでしょうか。
真理や哲学を否定するポスト構造主義の次なので、その真逆に、真理や哲学を肯定する時代がやってきそうなものですが、しかし、そうも簡単にはいかないかもしれません。
なぜ働いているのか?
なぜなら、私たちが作り出した社会システムは、次の社会システムを創り出すことですら「娯楽(記号)」として消費してしまうような「完全無欠の自己完結システム」であるからです。
大多数の人に最低限の衣食住を提供できる社会システムが出来上がってしまっているいま、それを根本から否定するモチベーションを抱くのは難しいかもしれません。
結局、そういった感じの考え方、生き方が、僕たちの世界の「普通」であり「常識」になっているわけだが……、しかし「常識」だからこそ、あえてそこをこんなふうに蹴り飛ばしてしまうのはどうだろう。
私たちが、強いられているもの。
それは、自分が意図しない働き方をすることによる、ストレスや拘束時間です。
そういうことを感じてしまうのであれば、働くのを辞めて社会成立させるのを辞めちゃう?!という思想も出てきます。
社会を成立させるために、全員が一生懸命働かないといけない時代ではなくなりました。
たとえば、よくある仕事の事例として、あなたが手のひらサイズの通信機器を作る仕事をしていたとしよう。それは確かにあればべりだが、でも、本当にそれは生きるために絶対必要なものなのだろうか。他社と競争して身体を壊してまでもスケジュールを守って作り上げる必要のあるものなのだろうか?
私たちは、ここで、私たちを懸命に働かせている主体に気づくことになります。
それこそ、私たち自身でしかないということです。
私たちは、私たちによって、その社会コンセプトを活かすために働かされているのですが、それを多くの人が望まないとしたら・・・
そうした、発想を一人ひとりが持つと、もしかしたら社会はゆっくりとでも変わっていくのかもしれません。
働かない世界の先へ?
仕事の在り方は、大きく変わってきました。
昔は、生活に必要なものを作りたい→仕事をする。という構図でした。
しかし、いまは、とにかくお金をぐるぐる回したい→仕事をする。という構図へ移行しました。
これを支えているのが、次のような事実です。
「企業の生産能力があまりに高くなりすぎて、Aさんひとり働く開けで、今までどおりの生活必需品を生産できるようになってしまった」
この新しい条件によって、Aさんは職を得て暮らすことができますが、他の人は解雇になります。
すると、おかしなことがおこります。ものを多くの人に行き渡らせる技術があるのにもかかわらず、他の人はお金を持っていないので、そのものにアクセスすることができないのです。
そこで、政府が公共事業を主導して、他の人に職を与えることを進めます。そうすれば、お金を作り出すことができて、ものを回していくことが可能になります。政府に対しては、企業の税収という形で、循環が完成します。
穴を掘って埋めて、穴を掘って埋めて……。そんな意味のない仕事でも大丈夫。生きるための生活必需品はすでに市場に並んでいるのだから、あとは、全員に満遍なくお金がいきわたるようにすればよいだけのこと。
実際に自分が仕事を「やりたい」と思っていればよいのです。
しかし、そうでなくて、「やりたくもない」のにやっているのであれば、それは、まさに穴掘り、穴埋めと同じことかもしれません。
どうやって自分をごまかそうとしても、それはあなたにとって「穴掘り(=社会を維持するために強制的にやらされている「公共」の事業)」ということになります。
しかし、人はそれでは生きづらいものです。
わたしたちひとりひとりは、生を得た、意味を、そして私たちひとりひとりが、そうした社会のパーツではなく、固有の意識を持ったひとりの人格として、手応えを感じ続けたい生き物だからです。
「経済」「社会」「仕事」の先に、こうした概念を用いずに、どんな考え方をもって、私たちは自分たちを定義できるでしょうか。
本書の著者・飲茶さんは、「働かなくても良い世界観とは、どのようなものか?」という問いを象徴的に掲げます。
実際にこうした、稚拙だが、クリティカルな問いが起点となり社会を変える合理主義という哲学を生み出し、人々は考え続けてきました。
- 古「王様のために命をかけて戦う! それが立派な人間だ! 騎士だ! 忠臣だ!」
- 今「えー、王様のために命かけるの? なんで? 意味わかんない。じゃあ、王様が人を殺せって言ったら殺すんだ、頭おかしいんじゃないの(笑)」
- 古「違う! みんなが王様に忠誠を尽くさなければ、王国が倒れてしまう。そうなれば、他国から攻められて……」
- 今「じゃあ、王様なんか本当はどうでもいいってことよね。仕方なくやっているわけね」
- 古「違う! 王とは、神聖な——」
- 今「あー、もういい。話にならないわ。うふふ☆おっけー」
「労働は尊い」「働いて当たり前」という今の常識を、覆して、ものごとを見つめてみるとどうだろう?そんな世界観が私たちにも描けるのではないでしょうか。
そしてそこに立ちはだかるハードルは、「暇」であることをいかに哲学していくか(=意味を見出していくか)ということです。多くの人が、働かなくてももはや良くなる時代において、膨大な時間をどのように過ごしていくのか?
目的のない人生を、それが良いのだ!と強く肯定できる価値観を、私たちはまだ持ち得ていません。
「暇」については、こちらの1冊「【パンだけでなく、バラのある生活?】暇と退屈の倫理学|國分功一郎」もぜひご覧ください。
まとめ
- 哲学史を振り返ると?――前時代の否定の継続でした。
- なぜ働いているのか?――私たちは、わたしたちによって働かされている存在かもしれません。
- 働かない世界の先へ?――暇に意味を見出すこと、無目的な人生によし!と言えるでしょうか。