- 私たちは、どうしたら自らの思想を俯瞰することができるでしょうか。
- 実は、私たちが囚われている自由の意味を理解することが、キーかも。
- なぜなら、スピノザが説くのはそれとは全く異なるものだからです。
- 本書は、スピノザ『エチカ』を読み解く1冊です。
- 本書を通じて、私たちが囚われている先入観に気づくことができます。
ものごとは組み合わせ次第?
バルーフ・スピノザ(1632~1677)は、17世紀オランダを代表する哲学者で、合理主義哲学の重要な思想家の一人です。ポルトガルからの亡命ユダヤ人の家庭に生まれ、若くしてユダヤ教会から破門されましたが、これが彼の独自の哲学的思考を深める契機となりました。
スピノザの哲学の中心には、「神即自然」(Deus sive Natura)という考えがあります。彼は、神と自然を同一のものとみなし、すべての存在は単一の実体(神=自然)の様態であると主張しました。この汎神論的な世界観は、当時の正統的な宗教観と鋭く対立するものでした。
彼の主著『エチカ』は、ユークリッド幾何学の演繹的方法を用いて、人間の感情や行動、そして至福への道を体系的に論じています。
スピノザは、人間の自由は必然性の理解にあると説き、理性による感情の制御と、神=自然の必然性の知的理解による精神の解放を説きました。
レンズ研磨工として質素な生活を送りながら思索を重ねたスピノザの思想は、後のドイツ観念論やロマン主義に大きな影響を与え、現代でも哲学、倫理学、政治思想の分野で重要な研究対象となっています。
本書は、そんな彼の『エチカ』を解説し、レビューするものです。
ちなみに、國分功一郎さんの著書については、こちら「【目的は絶対か!?】目的への抵抗―シリーズ哲学講話―|國分功一郎」や「【哲学は人生を考えること!?】哲学の先生と人生の話をしよう|國分功一郎」もぜひご覧ください。
國分功一郎さんの著書は、いつも人生についての気づきを提供してくださいます。さて、本書『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』について見ていきましょう。
スピノザが生きていた17世紀という時代は、人類にとって大きな変換点でした。私たちが知っている国家はこの時期に誕生しています。
17世紀における国家形態の出現は、政治体制の歴史において革命的な転換点でした。
それまでの政治体制の中心にあった王権は、君主個人と王朝による統治が基本で、領土は君主の私的な所有物とみなされていました。支配の正当性は神による権威付与(神権政治)に基づいており、統治機構も君主の個人的な官僚や貴族による人格的な支配関係で成り立っていました。
これに対し、17世紀に登場した近代国家では、まず主権という概念が確立されました。これは、ジャン・ボダンやホッブズらによって理論化された概念で、一定の領域内における最高かつ絶対的な支配権を意味します。この主権は、もはや君主個人のものではなく、国家という非人格的な制度に帰属するものとされました。
また、官僚制システムの整備も進み、人格的な忠誠関係ではなく、法と規則に基づいた合理的な行政機構が発達しました。特に、常備軍と恒常的な徴税制度の確立は、国家の物理的強制力と財政基盤を強化することになりました。
つまり、現代にまで続く、社会の基盤がはじめて作られたと言ってよいでしょう。
このような変化は、単なる統治形態の変更以上の意味を持っていました。政治的正当性の源泉が神から人民(または国民)へと移行し始め、人々の帰属意識も地域や身分から国家へと転換していきました。また、国際関係においても主権国家間の対等な関係という原則が確立され、これらの変化は、その後の民主主義や国民国家の発展の基礎となり、現代の国際社会システムの原型を形作ることになったのです。
人は、自らの立場が変化していくにしたがって、これまでのような拠り所ではないところに、意志を見出していく必要性を感じ始めました。
スピノザは、こんな時代にあって、『エチカ』というタイトルの書物に思想をたくしました。
エチカというのは、倫理学を意味するラテン語ethicaで、英語ですとethicsになります。倫理学というのは、どのように生きるかを考える学問のことです。自分がいまいる場所でどのように住み、どのように生きているかという問いが含まれています。
スピノザが立つのは、次のようなスタンスです。
すべての個体はそれぞれに完全なのだと言います。存在している個体は、それぞれがそれ事態の完全性を備えている。自然の中にある個体が不完全と言われるのは、単に人間が自分のもつ一般的概念、つまり「この個体はこうあるべきだ」という偏見と比較しているからであって、それぞれはそれぞれにただ存在しているのである。
個体は、それ自体に善いものも悪いものもないということです。善悪とは単に、相対的なもので、私たちの意識の問題であると言います。
善悪は物事の組み合わせで決まる。
例として、音楽をあげます。
「憂鬱の人」、つまり落ち込んでいる人と音楽が組み合わされると、その人には力が湧いてきます。その意味で落ち込んでいる人にとっては音楽は善いものです。「悲傷の人」というのは、たとえば亡き人を悼んでいる状態にある人のことです。そのような人にとっては、音は悲しみに浸るにあたって邪魔であるかもしれません。そのような意味でその人にとって音楽は悪い。「聾者」、つまり耳が不自由な人には、音楽は善くも悪くもありません。
善悪が組み合わせであるということを意識することによって、可能性を見つけることができます。
人それぞれの生き方とは?
では、善とはなにか、について解像度を上げてみましょう。
それは、つまり「私」とうまく組み合わさって私の「活動能力を増大」させるものです。
スピノザは、組み合わせの可能性を見出そうとします。よって、実験することを奨励します。
自分にとってはどうなのか?あるいは、他者にとっては、どうなのか、あらゆるものごとには可能性があるため、組み合わせを検証することについて、ポジティブなスタンスを取るのです。
ちなみに、組み合わせの論点で人を見つめることについて、こちらの1冊「【人は、なぜ共に働くのか?】働くということ 「能力主義」を超えて|勅使川原真衣」にもリンクします。
スピノザは善悪を組み合わせで考えましたが、人にとって善いということは、人やものごと、あるいは、人と人の組み合わせがよりよいときです。
たしかに、この志向は、自分自身という存在を優先していることになりますが、しかし、それは他人を犠牲にして成り立つということではありません。
一人ひとりの自由が社会の安定につながる。
一人ひとりの自由があってこそ、社会全体のバランス(組み合わせが波及するイメージ)が担保されていくのです。このある種の努力は、人々が共同で安定して暮らしていくために、重要なものであるとスピノザは説きました。
自由とは?
自由の本当の意味を考えてみましょう。
「自由」とは何か与えられた条件のもとで力を発揮すること。
私たちは、「自由」という言葉を「束縛がない」という意味で使います。制約がない状態です。
しかし、スピノザはそのように考えるのではなく、制約がないだけでは自由がないとは言えないと考えました。そもそもまったく制約がない状態はありえないといいます。
自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによっって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるのは必然的である、あうりはむしろ強制されると言われる。
現代を生きる私たちの考えを見つめていくと、必然と自由は対立するものとしてみなされています。しかし、スピノザはそれらが対立するものとは考えません。
むしろ、自らの必然性によって存在したり、行為したりするときこそ、その人は自由であると捉えます。
必然性を、その人に与えられた身体や精神の条件であると考えてみるとよいでしょう。
例えば、腕を動かすことを考えてみるとき、可動範囲を持ち、その内部には一定の構造があり、これらの条件によって、腕の動きは必然的な法則を課されています。腕を動かしていると言えるのは、その必然的な法則に「うまく従い」それを、生かすことができている時なのです。
人は実験しながら自由になっていく。
人は生まれながらにして、自由を得るわけではないのです。人は自由になる、あるいは、実験をしながら、ものごととの相性をたくさん知っていく中で、自らを自由にするものなのです。
赤ちゃんの例で見つめてみましょう。赤ちゃんは自分の身体を知り、そして使い方を徐々に理解して、自分の身体がどのような必然性に貫かれているかを感じ、必然性の中で自由を得ていきます。
もっと言えば、國分功一郎さんは、「自由とは自分が原因になること」であると説きます。
人は自らが原因となって何かをなすとき、能動と言われます。私が私の行為の原因である場合、私はその行為において能動と言えるのです。反対に他者のちからをより多く表現している時、私は受動であると言えます。
自由であるとは能動的になることであり、能動的になるとは自らが原因であるような行為を創り出すことであり、そのような行為とは、自らの力が表現されている行為を言います。
これまで見つめていくと、実は私たちが「自由」だと思っていたものが、異なるものであると知ります。
「意志の自由」「自由意志」を過大に評価される時代を私たちは生きています。私たちはたしかにそのような「意志」が存在していることを主観的に感じることができます。
なぜなら、意志は結果だけを受け取り、意志を引き起こした原因について、わかることができないためです。だから、「無からの創造」であると感じてしまい、それを追い求めてしまうのです。
しかし、実際には行為というのは、実に多くの要因によって規定されいるのが実態です。スピノザは意志が自由な原因に基づいていることを否定しました。
しかし、それはあなたの意識の否定ではありません。あなたはロボットではありません。意識は万能ではないし、意志は自発的ではない、ただそれだけのことです。
純粋な自発性としての意志など存在しないということを認めてみましょう。
そのうえで、自分の意識を刺激しながら、自分とものごとの相性を見極めるために、多くの実験によって、世界を広げていく、あるいは、自分という法則を理解することを取り組んでみることが大切なのだとスピノザは語ります。
まとめ
- ものごとは組み合わせ次第?――善悪とは、組み合わせによって規定されるもので、可能性を持ちます。
- 人それぞれの生き方とは?――組み合わせの妙の中で、自覚的に生きていくことです。
- 自由とは?――必然性の中で、意識を巡らせていくことで、多くの必然性に触れることが大切です。