- 私たちの生き方を規定するのは、一体何でしょうか。
- 実は、自分に対する見立てです。
- なぜなら、それによって、自分の考えや行動を支配するからです。
- 本書は、ハイデガーの思想をものがたりを通じて情緒深く伝える1冊です。
- 本書を通じて、自らの視野視点を磨くことの素晴らしさに気づくことができます。
道具 vs 根源?
道具が、道具として存在することができるのは、そこに目的があるからです。
例えば、ハンマーは釘を打つためにあるのですが、その釘は、家を作るたためにあります。そして家というものはそこに住むためにあるという目的によって、存在しています。
このように「何のためにあるのか」という問いを持つことによって、目的へと遡っていくことができます。そして、最終的に行き着くのが、自分自身です。
あらゆるモノは、「自分」という究極の目的のための道具として現れていくことになります。
だから、本来、おまえは道具体系すなわち世界において、もっとも重要で特別な存在であり、かけがえのない存在なのだ
問題は、人間自身が、自分を道具化して認識してしまうことにあります。本来的には、道具体系の中で、目的的起点となる存在であるはずなのに、自分がその中で特定の役割を持った道具として認識してしまうように、世界は絶えず差し向けてきます。
それは、もしかすると、会社の役職という役割かもしれないし、プロジェクトでの職位かもしれません。でも、そうして自分が社会の中で特定の道具的役割を持っていることを重視しているがあまり、自分が目的ではなく、「代替可能な手段」として結果的に陥ってしまうことがあります。
おまえ自身は道具体系における『目的の根源』だ。いわば世界の王様であり、かけがえのない存在だと言っていい。つまり、それがおまえの、いや人間の本来の姿――在り方なのだ。
それなのに私たちは軽々しく、自らを道具体系のなかに放り込んでしまいます。
道具として見られるということは、利便性を語られても、残念ながら、かけがえのなさについては語られることがありません。
道具として自分を見るということは、他者に対しても同じような視線を送ることになります。反対もしかりです。互いにかけがえのない存在であるはずなのに、世界の歯車のように違いを見つめている様は、とても悲しい姿のように見えます。
自分が中心である感覚という感覚を失っていくことで、様々な社会的役割を引き受けること、ないし、引き受けられないことという機能について惨めさを感じたり、あるいは、満足を感じたりするわけですが、そうした自己の道具化を行っても、それは本来的な姿ではないということです。
本来的な生き方とは?
「交換可能な存在」であることというのは、死がないものとして捉えられるということにもなります。
仮に「道具」が死(喪失)によって、なくなっても、代替があるからです。世界は何事もなかったかのように、進んでいくでしょう。道具としての自分は、本質的に「この世にいなくても良い存在」であり、無価値で無意味な存在に過ぎないということになってしまうのです。
そして、もう一つ大切なのが、死ということを考えることで、道具としての悲しさを痛感できるということです。
死は「私の道具性(代替可能で本質的には無価値なモノ)」という非常な現実を突きつけてきます。
死が恐ろしく感じるのは、この点にあります。自分自身が交換可能な道具のようなものであり、決して貴重でもなく、特別でもなく、ただ無意味に消えていくだけの存在だと思ってしまった途端に、自分自身の存在の意味を失っていくのです。
人間は、誰もが自分をかけがえのない存在だとぼんやり思っているが、一方で、自分を社会における何らかの役割として規定していたりする。
ハイデガーは、この論点について、次のような考え方をしています。
「人間とは自己の固有の存在可能性を問題とする存在である」
つまり、人とは自分がどんな存在か?を常に問いかけながら、存在していく。ということです。
人は、自分自身の可能性を常に問いかけて生きることができます。道具として?あるいは、かけがえのない存在として、目的の根源として?いずれも、一言で言えば、生きるということになります。
1)世間はたいてい、自分自身を道具として見ていきます。
2)しかし、自分自身は、自分を道具ではない、道具体系の中心であると思います。
このジレンマの中で、自分自身を見失い(=世間に流されて)道具として見つめてしまうことによって、自分の可能性(自分が本当は何であるか)を狭く定義してしまう可能性を秘めています。
最初にボタンを掛け違えさせた世間が原因であり、それを受け入れた本人が悪いのだ。
死というのは、本来代理不可能なものであり、あなた固有のものなのです。だから、誰かがそれを代替することができずに、つまり自分自身が道具でなかったということを証明することなのです。
死だけがそれを教えてくれるのです。死だけが、自分自身を交換不可能な存在であることを。
1)人は必ず死にます。
2)いつ死ぬのかわかりません。
3)死んだら終わりです。
4)死ねば無関係になります。
そして、
5)死は代理不可能です。
儚いが、確かに存在している?
2つの生き方を比べてみましょう。
非本来的な生き方
=交換可能な、道具のような生き方
=自己の固有の存在可能性を問題としない生き方
=自分の人生とは何だったのかを問わない生き方
=死を忘却した生き方
本来的な生き方
=交換不可能な、道具ではない生き方
=自己の固有の存在可能性を問題とする生き方
=自分の人生とは何だったのかを問う生き方
=死を意識した生き方
『本来的に生きる=死を意識して生きる』ということが定式化されている以上、死を意識せず済まそうなんて発想はそもそもない。
どうしたら、死を先駆的に覚悟することができるでしょうか。この点についても、ハイデガーは一つの答えを出しています。それは、「良心」です。
良心というのは、「負い目」といってもいい論点です。
なぜ人が負い目を感じるのか?それは、自分が悪いことをしたという自覚に基づくことです。本当はもっと善い選択、善い生き方ができたかもしれないという思いがあるからです。そうした態度をしていくことは、つまるところ「両親がある」と言い換えても良いことでしょう。
人は限りある存在です。限界がある。だから、できないことがあるために、無力感を感ぜずに入られません。
負い目(良心)を感じた瞬間にそれを大切にすることです。人間の本来的な生き方へと導く、よい機会となります。
①良心とは、負い目を感じる心である。
②負い目は、人間の無力さ、有限性から生じるものである。
③また、負い目は、誰でもいつでも感じられる日常的なものである。
④その日常の負い目を見逃さず、向かい合うことで「死の先駆的覚悟(本来的な生き方)」ができる。
ハイデガーの哲学は、死や覚悟など自分中心の深刻なキーワードが多い。このとき、自分だけが有限の存在、かけがえのない存在であるとしたら、自分の人生の意味を作るために、どんなに我儘で残酷なふるまいでも『他者に対してしても良い』ということになってしまう。なにせ、自分以外はすべて交換可能な道具なのだからな。だが、それではダメだ。そんな生き方には意味もなければ価値もない。尊くもなければ美しくもないだろう。それではハイデガーの哲学を半分も理解したことにならない。だから『自己の有限性』だけではなく、『他者の有限性』『他者のかけがえのなさ』『他者への負い目』を感じて初めてハイデガー哲学の理解は完成するのだ。
自分も他者も、同じように過去において世界に勝手に投げ込まれてしまった存在です。
過去は、一方的に被ったものなのです。そして、絶えず、不確定な未来に向かって、自分自身を投げ入れていくことしかできず、さらに可能性をたったひとつしか選択することができないのです。
こうした自他が共通して負っている境遇を認識することで、自分に対しても他者に対しても眼差しを変えていくことができるはずです。
私たちは、時間を絶えずムダにしてしまっているかもしれないという、負い目を引き受けながら、死へと向かっていく存在です。
ポジティブに捉えていけば、未来というひとつの可能性を「選べる」ということにもなります。また、過去においても投げ込まれてしまった事実を引き受けることができる固有な自分は、自分自身だけということにもなります。そして、過去から現在までの経験をできているのも、当然私自身の固有なものになるはずです。「宿命」として受け取ることだってできるでしょう。
現在という時間において、宿命から導かれた自分固有の可能性を自らの意志で選び取り、実践するのだ。そのとき、現在は、逃避の場ではなく、本来の人生を生きる場として現れるだろう。
「彼らは──気づいたらこの世界に放り出され、そして、死ぬことが運命づけられ、何が正しいかもわからないまま、自分だけの固有のあり方を問いかけ、他と関わりながら、今ここに現に生きている存在──である」
これが私たちの本当の姿なのです。
ハイデガーを引用する著書については、こちらの1冊「【なぜこんなに忙しいのか!?】限りある時間の使い方|オリバー・バークマン,高橋璃子」もぜひご覧ください。
まとめ
- 道具 vs 根源?――本来的な「目的の震源地」であることを自覚しましょう。
- 本来的な生き方とは?――死を意識し、かけがえのない存在であることを意識する生き方です。
- 儚いが、確かに存在している?――気づけば、存在し、そして可能性を選びながら死に向かう存在です。