- 哲学とは、何でしょうか。
- それは、もしかすると絶えず生き方を考え続けるという行為かもしれません。
- なぜなら、そうやって過去の人は、自らを生き死んできたからです。
- 本書は、生き方を考えてみることについて、検討できる1冊です。
- 本書を通じて、改めて自分の時間の使い方について意識を向けることができるでしょう。
自然とともにあるもの?
自然に従うと述べたのは、ギリシア哲学のセネカでした。彼は「自然に即して生きること」こそが、人が平穏に生きる秘訣であると述べました。
セネカのこの教えは、現代を生きる私たちにも深い示唆を与えてくれます。彼が説いた「自然に即して生きる」という考えは、単に自然環境との調和を説いたものではありません。それは、理性的存在である人間が、宇宙の摂理や秩序を理解し、それに従って生きることを意味していました。
このストア派の考えによれば、私たちが日々直面する不安や苦悩は、この自然の摂理に逆らおうとすることから生まれます。例えば、自分でコントロールできない外的な出来事に過度にとらわれたり、必然的に訪れる変化を否定したりすることで、心の平安を失ってしまうのです。
セネカは特に、時間の有限性を受け入れることの重要性を説きました。
「人生は、長さではなく、その使い方で判断されるべきだ」という彼の言葉には、限られた時間をいかに意味あるものとして生きるかという、現代にも通じる深い洞察が込められています。
では、現代社会において「自然に従う」とは具体的にどういうことでしょうか。それは、テクノロジーや情報があふれる環境の中で、本質的な価値を見失わないことかもしれません。
常に新しいものを追い求め、競争に追われる現代の生活様式に振り回されるのではなく、自分の内なる声に耳を傾け、理性的な判断に基づいて行動することです。
自然と調和し、自然に従って生きることは、賢く徳のある人間になることであり、理性的存在として私たち自身のポテンシャルを実現することを意味していた。
哲学とは、こうした考えの軸を持ち、人が正しく自分自身になるために必要なものであり、本性を発揮するために必要なものなのです。
すべての人が本来の目的である「幸福」を達成するために必要なものである。
人がいかに「善く生きる」ことを追求する時、ただ単に、周りに流されて生きるだけではなく、自らが考え、境遇をどのように積極的に、そして主体的に受け入れていくかを考える必要が生まれてきます。
セネカは、このような主体的な生き方について、興味深い視点を示しています。彼は、人生における様々な出来事を「自分でコントロールできること」と「できないこと」に分けて考えることを提唱しました。それが以下でも説く、「コントロール二分法」です。
この区別を明確にすることで、私たちは無駄な苦悩から解放され、真に重要なことに集中できると説いたのです。
例えば、病気や災害、他者の言動といった外的な要因は、私たちの制御を超えたものです。しかし、それらの出来事に対する自分の態度や解釈、そして対応の仕方は、私たちが選択できるものです。このような「選択の自由」にこそ、人間の尊厳と可能性があるとストア派は考えました。
現代社会において、この教えは特に重要な意味を持ちます。SNSによる情報の氾濫、過度な競争社会、価値観の多様化など、私たちを取り巻く環境は複雑さを増しています。このような状況下で「善く生きる」ためには、外部からの影響に流されるのではなく、自らの価値基準を確立し、それに基づいて判断を下す必要があります。
ストア派の教えは、こうした主体的な生き方のための具体的な指針も提供してくれます。例えば、毎日の省察の習慣を持つこと、自分の感情や欲望を客観的に観察すること、そして自分の行動の結果に対して責任を持つことなどです。これらの実践は、私たちが「善く生きる」ための具体的な道筋となります。
しかし、ここで重要なのは、このような主体的な生き方は、決して利己的な個人主義を意味するものではないということです。むしろ、ストア派は人類全体との連帯感や、社会への貢献の重要性を説きました。自らの境遇を積極的に受け入れるということは、同時に、他者との関係性の中で自己を位置づけ、より大きな全体の一部として生きることを意味するのです。
このように考えると、「善く生きる」とは、単なる個人的な幸福の追求を超えた、より深い意味を持つものであることが分かります。それは、自然の摂理を理解し、自らの理性を磨き、社会との調和の中で自己実現を図っていく、終わりなき成長の過程なのかもしれません。
自己への配慮を?
哲学が何を意味するかを説明していくためには、ストア派の賢人・エピクテトスや他の賢人が一貫して、身体敵機な比喩、つまり、特に運動訓練、軍隊生活、医学にうったえかけたことにフォーカスしてみることが重要かもしれません。
哲学は主として「自己への配慮」、つまり、内面的なものに対して意識を向け、そして議論し、検討する過程であることを強調します。
このような哲学的実践における身体的比喩の重要性は、非常に示唆に富んでいます。エピクテトスが強調したように、哲学的な修養は、まさにアスリートが日々の訓練を重ねるように、継続的な実践と努力を必要とするものです。
特に、エピクテトスは「ディアトリベー(講話)」の中で、レスリングの選手が厳しい練習を重ねるように、哲学者も日々の試練に向き合う必要があると説きました。この比喩は単なる修辞的な表現ではなく、哲学的な成長には具体的な「訓練」が必要であることを示しています。
医学的な比喩も重要です。古代ストア派は、魂の病を治療する医師として哲学者を位置づけました。この視点からすると、「自己への配慮」とは、まさに心の健康診断のようなものです。日々の思考や感情を観察し、不健全な思考パターンを特定し、それを修正していく―――この過程は、医師が患者の症状を診断し、適切な治療を施すプロセスに似ています。
また、軍隊生活の比喩は、哲学的修養における規律と覚悟の重要性を示唆します。兵士が厳格な規律の下で訓練を重ねるように、哲学的な実践も確固たる原則と日々の規律ある生活を必要とします。エピクテトスは特に、予期せぬ困難に直面しても動揺しない兵士のような精神的強さを理想としました。
これらの身体的比喩が示唆するのは、哲学が単なる知的な営みではないということです。「自己への配慮」は、知識の蓄積だけでなく、実践的な訓練と日々の努力を通じて初めて実現されるものです。それは、まさにアスリートが筋肉を鍛えるように、私たちの内面的な「筋肉」を鍛えていく過程と言えるでしょう。
この観点から見ると、哲学的な実践における「内面への意識」とは、単なる内省や観想ではありません。それは、具体的な目標を持ち、計画的に取り組む必要のある、能動的な営みです。
私たちは日々の生活の中で直面する様々な状況を、自己を鍛錬する機会として捉え直すことができます。不運な出来事、困難な人間関係、予期せぬ失敗―――これらはすべて、私たちの内面的な「筋肉」を鍛える機会となるのです。
そして、この「自己への配慮」は、決して孤立した個人的な営みではありません。
それは「善く生きる」ことを求める者には必須のものなのである。
エピクテトスが強調したように、それは同時に、社会的な責任と結びついています。アスリートが自身の記録更新だけでなく、チームや観客への責任も負うように、哲学的な修養も、より大きな社会的文脈の中で意味を持つものなのです。
いま・こことは?
ストア派が強調するのは、「コントロールの二分法」と呼ばれるものです。
「判断、衝動、欲望、忌避」など、一言で言えば、私たちの働きによるものは、私たちの力の及ぶところなのですが、「肉体、財産、評判、官職」など、これらは、私たちの働きの力が及ばないものです。
これらを混同して捉え、考えてしまうことに、不幸の始まりがあります。
いくら、自分がコントロールできないものに対して頑張ったところで、手応えや結果を得ることは難しいでしょう。
そうした壁にあたっていることが、無気力を生み出してしまうこともあるかもしれないし、自分自身に対する見立てを歪んだものにしてしまう可能性もあります。
ストア派は、正しく自らの行動や考えを引き出すことができるように、まず、こうした「コントロールの二分法」を強調したのです。
誰のうちにもいる賢者
ストア派は、また、誰の中にも賢者の素質があることを説きます。
誰もが、賢く、美しく生きていくことができるはずなのに、人間同士、社会の中で、バイアスを含んだものごとの見方をする中で、どうしても視野・視点が歪んでしまうこともあることを危惧するべきです。
そのためには、自分がいまなにを考えていて、何を思っているのか、そして、その結果どういう行動を取ろうとしているのかについて、よくよく検討をしてみることから始めてみることです。
事実、ストア派は、いま・ここの哲学と言われるように、上述のようないま・ここ=「自分自身への注意」を大切にします。これはすなわち、マインドフルネスと訳されるかもしれないし、あるいはその結果としてのウェルビーイングとも言うことができるかもしれません。
2000年以上も前に、こうした人の生き方について本質的な発想や着眼点がすでに発見されていたことは、驚きます。
反対に、人の生き方や悩み、不安、そして幸福のあり方、考え方というのは、普遍的なものかもしれない、ということに気づきます。
私たちは、精一杯考えて、自分を正しく捉えて、賢明に行動を続けることができるという希望を持つべきなのかもしれません。そして、よりよい一歩を続けていくために、一瞬一瞬でベストな生き方を積み重ねていくことがよいのだと思います。
ストア派の教えについては、こちらの1冊「【世界の定義は、自分にある!?】エンキリディオン(ストア派哲学の手引書)|エピクテトス,湊凛太朗」もぜひご覧ください。
まとめ
- 自然とともにあるもの?――自然に逆らわずに調和することが、豊かさの始まりです。
- 自己への配慮を?――自分自身に対する注意が何よりも欠かせません。
- いま・こことは?――あなたが善く生きる瞬間のことです。