- 中世に信じられていた神。でも、それらがないことに気づいたいま、何を信じればよいでしょう。
- 実は、自分自身かもしれません。
- なぜなら、自己現実こそが、支えとなり、信じられるものになるかもしれないから。
- 本書は、何を頼りに生きていくことが理想かを考える1冊です。
- 本書を通じて、生き方について再検討するヒントを得ることができます。
神不在の世界をいかに生きるか?
確かに、神が信じられていた時代がありました。この神という概念は、様々な捉え方ができると思います。
神に求めた機能は、次のように分析することができます。
説明できない現象への解釈の枠組み: 古代から人々は自然災害や病気、死など、当時の知識では説明できない現象に直面してきました。神という超越的な存在を想定することで、これらの現象に意味づけを行い、理解の枠組みを提供することができました。
存在の意味と目的の探求: 人間は自身の存在の意味や目的を常に探求してきました。神という概念は、人生に対して超越的な意味と目的を与え、「なぜ生きているのか」という根源的な問いへの答えを提供してきました。
秩序と道徳の基盤: 社会の秩序を維持し、道徳的な規範を確立するうえで、神という絶対的な存在は重要な役割を果たしてきました。神の意志という形で規範を示すことで、社会の結束を強め、共通の価値観を形成することができました。
不安と恐怖への対処: 死や不確実な未来に対する不安、自然の脅威への恐怖など、人間が直面する様々な不安や恐怖に対して、神という存在は心理的な安心と保護を提供してきました。
ただ、今現在は、科学技術も発達し、さまざまなことがよく見え始めている時代になっています。確かに、私たちの心の挙動には謎が多いし、無意識下には、なかなかアクセスができませんが、それでも神の必要性と存在は揺らいでいます。
そうした中で、私たちが拠り所にするのは、もしかしたら私達自身、あるいは、私たち同士のつながりかもしれません。
自己への信頼と内なる力:
- 従来、神に求めていた導きや力を、自分自身の内面に見出していく可能性があります。
- 自己理解を深め、自分の価値観や判断を信頼することで、精神的な安定を得ることができます。
- マインドフルネスや瞑想など、自己との対話を深める実践も、現代人の精神的支えとなっています。
人々とのつながり:
- 共同体の中での人々との絆が、新しい形の精神的支柱となりうます。
- お互いの経験や知恵を共有し、支え合うことで、人生の意味や目的を見出すことができます。
- オンラインコミュニティなども含め、新しい形での「つながり」が生まれています。
むしろこれらは、神の代替という発想ではなく、私たちが自己の再発見をする過程にいま立っていると捉えても過言ではないかもしれません。
神という概念は確かに重要な役割を果たしてきましたが、それは本来、人間が持っている「つながりを求める本質」や「自己を超えたものを探求する姿勢」の表れだったのかもしれません。
自らが神をつくらなければらなない。
これからの時代に必要なのは、こうした本質的な人間の特質を、より直接的な形で認識し、育んでいくことなのかもしれません。それは単なる個人主義でもなく、また従来の宗教的な枠組みでもない、新しい形の精神性や共同性の探求につながるのではないでしょうか。
私を生きよ?
仕事に対しての見立てが少し変遷してきたことも、上記のような大きな自己規程の必要性の表れと言ってよいでしょう。
これからの時代、仕事を通じた自己実現は、より広い文脈での「人間らしい生き方」の一部として位置づけられていくべきではないでしょうか。それは、個人の成長や社会への貢献という側面を持ちながらも、人間本来の多面的な在り方の一つの表現として捉えられるものかもしれません。
人間は、神とともにあって幸福だったかもしれません。それは絶えず外側から人間を動機付けてくれました。人間の精神は弱いです。放っておけば、怠惰にもなるし、堕落することだってあるでしょう。
しかし、絶えず、存在する神が自分を見てくれているという感覚は、確かな安心感を持って、人の生きる力を提供してくれていたということは間違いない事実です。
自らが望むのではなく、神が望むということによって救われた。
現代においてむしろ大切なことは、自らが望めるかどうかということです。もはや自分たち自身の中に神を見出して、精神性を強く、そして豊かに時間を過ごしていくための工夫が求められるようになっていると言ってもよいでしょう。
自分で道を切り拓いていくためには、非常に困難な過程を伴うかもしれません。それは、絶えず自分の未熟さを痛感し、そして、もがきながらも道を見つけていく行為でもあるからです。
人はさまざまなことを考えてしまいます。それは心があるからであって、それらに対していかに俯瞰的になれるかどうかが大切なのですが、渦中にあってそれもなかなかに難しいことです。感情的になってしまうことだってあるでしょう。
神は人間の身勝手な弱々しい気持ちのあらわれにしかすぎない。
ではどうしたいいか。
「私には、私の人生がある」と本気で思えるかどうかで、そのための行動を絶えず行うことができるか?ということに尽きます。
私は私の生を生きたいし、私の死を死にたい。
私は私らしく生きて、私らしく死にたい。
私らしさというからには、人と違うことをしなくてはならないのか?という問いがうかびそうですが、決してそんな事はありません。
わざわざ人と違うことをしようとすると、生きがいを失ってしまいます。
人はそれぞれ違い、それを受け入れることが大切なのです。すると、結果的に、同じことをしようがしまいが、変わりないことについて自信を持つことができるようになります。
「自分には自分の人生がある」という人の生き方は、自分ばかりでなく、「ありのままの他人」も受け入れていることである。
競争のロジックではなく、共に人生を歩むという、ありのままのロジックをインストールしましょう。
勝ち負けでない世界観へ?
人が、「最善」を選択することができるのはどういう時でしょうか。
それは、競争がないときです。競争していれば、相手に勝つことが優先されてしまうのです。
そして、劣等感という感情も、残念ながら、「最善」から人を遠ざけてしまいます。
劣等感は、人を最善ではなく、最高を目指すようにしてしまう。
最高であることを証明することで、自分の価値を証明しようとしているのである。
大切なことは、適切な努力は報われる方向へと導かれるということ。反対に、不適切な努力は、決してそういうベクトルへは向かわないということです。
競争で勝つことは、決して「自己実現」ではありません。
他者に依存した、弱さを全面に押し出した競争戦略でしかありません。
なぜなら、勝つということは他者があること、そして他者との競争という揺るぎない関係性に依存しているからです。
勝っても勝っても不安になる、そういう負のスパイラルに身を投げてはならないのです。
一人ひとりに、自分が決めたゴールがある。
私たちが気高く生きていくためには、自分という存在をありのまま認めることが欠かせません。自分という存在をそのまま受け入れることは、競争ではないのです。そこには、他者のありのままを認める「愛」の概念が溢れます。
自己蔑視の最大の問題は、人を愛する能力を失うことである。
対象への関心を失ってしまいます。愛する能力さえあれば、人生の諸問題というのは、解決することができるはずなのに。
他人のことが気になりだしたら、注意が必要です。それは自分が自分を生きていないという、アラートだからです。
他人と比較したり、他人の悪口を言ってみたり、他人を罵ったり、そうした状況から身を引くには、自分がひたすらに自分の生き方を見つけて、道を歩んでいくよりほかありません。
一見、安定して見える、会社という組織には、そうした状況へといざなうともすると負のちからが内在してしまうことがあります。
バーチャルな安定感を提供されると、人は、安心して、さまざまな煩悩を抱きやすくなります。
そうではなくて、人生というのは、一定の厳しさの中にあってこそ、愛を持ちやすくなるのではないか?と自らに問うてみることです。
バーチャルな安定感に身を委ねるのではなく、本来的な一定程度、厳しくも取り組みがいのある世界へと1歩踏みだしていく勇気を持ってみることです。
自分の心を大切にして、そうすれば、相手の心を大切にして、絶えず流れる過程に目を向けて、勇気を持って生きることができるようになります。
人生とは必ずしも結果ではないのです。常に生きていること、それこそが人生を形作っていきます。
生き方について、こちらの1冊「【「自分は自分」であると考え、自分を信じてあげよう!?】最強の生き方|アーノルド・ベネット」も、ぜひご覧ください。自分を大切にする生き方について、多くの発見を提供してくれます。
まとめ
- 神不在の世界をいかに生きるか?――鏡に映った自分を見つめてみましょう。
- 私を生きよ?――それが、最善の生存戦略です。
- 勝ち負けでない世界観へ?――自らを愛し、そのことで、同時に他者をも愛しましょう。