- 「読む」とは、実際にどんなことでしょうか。
- 実は、学校で教えられる読むとは異なる世界があるかも。
- なぜなら、社会のおきての範囲は、もっと広いのです。
- 本書は、読むの本当を見つめる1冊です。
- 本書を通じて、どのような文章がものごとの本質をつくのかを知ります。
読めない文章?
学校で読み書きは教わります。そこで取り扱われる文章や、読み方は、たしかにひとつの読み方の型です。
ですが、学校で習っている内容だけでは、読めない文章というのも存在するのが確かです。
簡単にいうと、「読めない」ものがでてくるのです。
例えば、「地下水の流れる音を聴きなさい。」というフレーズで始まるオノ・ヨーコさんの『グレープフルーツ・ジュース』という作品は、
筆者の気持ちや、本当にいいたいことを理解するというアプローチは、有効でしょうか?
想像しなさい。
千の太陽が
いっぺんに空にあるところを。
一時間かがやかせなさい。
それから少しずつ太陽たちを
空へ溶けこませなさい。
ツナ・サンドウィッチをひとつ作り
食べなさい。
地下水の流れる音を聴きなさい。
心臓のビートを聴きなさい。
地球が回る音を聴きなさい。
この本を燃やしなさい。
読み終えたら。
果たして、ここで書かれることって、何なんでしょうか。
一つの答えを導き出すというよりも、なにか読者に絶えず考えさせてくれる文章です。
ちなみに、ジョン・レノンさんは、この詩に感化されて、後に『イマジン』を生み出したとも言われているそうです。
問いを抱いて?
たくさんの問題を生み出せば出すほど、「いい文章」であるということもできそうです。
なぜなら、その文章自体が問いとなって、私たちがずっと思考を巡らせることができるからです。
日常生活のふとした瞬間にも、そういう文章は頭をよぎり、「はて、あれはどういうことなんだろうか?」「そういえば、今目の前のシーンは、そのヒントになるのではないか?」と、考えさせて続けてくれます。
問題山積みで、できたら近づきたくないような文章、そういうものこそ、「いい文章」だ、とわたしは考えています。
「いい文章」という論点は、社会があたりまえや常識で創り上げていることがあります。
素晴らしい比喩、ボキャブラリーの豊富さ、精密な論理、ワクワク・ドキドキするようなストーリーなどなど、こうした要素が含まれる文章は「いいもの」であるとされます。
でもそうした「いい文章」というのは、もしかすると「読者を変える」ことをしないかも知れません。
本当によい文章というのは、読者に何かの作用をもたらして、それまでの読者から変えてしまうような文章です。
よい文章とは?
問題山積みの文章だけが、「危険!近づくな!」と標識が出ているような文章だけが、それを「読む」読者、つまり、わたしやあなたたちを変える力を持っている、わたしはそう考えています。
残念ながら、こういう文章は学校の教室には置いていません。
なぜなら、その場で生徒や学生が「変わってしまったら」だれもその場にいることができなくなってしまうからです。
学校という場所をどういう意味として理解するのか根本的なことを極力考えないようにして、ひとつの場所や時間が構成されています。
でも、変わってしまった自分からみたら、それらはまた別の見え方ができてしまうのです。
そうして、誰もいなくなる。
教室の「外」へ出て、なにか新しいものを発見しようとするに決まっているからです。
国や社会というものは、目に見えないものですが、確かにそこにあるように感じられるものです。
これらの考え方はあらゆるところに存在していて、わたしたち自身がわたしたちを「そうあるように」コントロールしています。
そして、優れた作家だけが、その「目に見えない」、国や社会を「文章」という形で浮かび上がらせることができます。
ここにもう一つの「よい文章」の世界が広がっています。
また、一方で、文章で表現できるものがすべてか、というとそうでもないことも事実です。
でも、会話がつきて、どんなことばも届かないな、と思ったとき、人は、「ねえ、キャッチボールをしようか」といったりもするのです。
ふたりの間を往復するボールは、なにか・・?
本書は、「読む」や「言葉」のあたりまえを疑わせてくれる素敵な1冊です。ぜひご拝読を。
こちらの1冊「【実は、言葉には限界がある!?】「書く」って、どんなこと?|高橋源一郎」もあわせておすすめです。
まとめ
- 読めない文章?――学校で教えてくれない、文章の存在を知りましょう。
- 問いを抱いて?――問いを抱くことによって、世界との関わりを変えられます。
- よい文章とは?――知らず知らずの枠組みを超えてみましょう、文章の力を借りて。