- 学び続ける人生を立ち上げていくためには、どのような点がポイントでしょうか。
- 実は、生涯を通じて哲学的にものごとをみることかも。
- なぜなら、存在していること自体が、考えるヒントを提供してくれるからです。
- 本書は、哲学的にものごとを見続けるための考え方を教えてくれます。
- 本書を通じて、よりよい人生に向けた心構えを知ることができます。
哲学的思考とは?
存在自体が哲学的な考え方のヒントを提供してくれます。例えば、子どもという存在は、親だけでなく、関わる大人たちに対して、その存在を持って、生命の不思議、生命のか弱さと力強さを感じさせてくれることを通じて、存在していることについて、感じ、考えさせてくれます。
そして同時に、私たちの常識の限界を知らしめてくれるものでもあります。子どもと接していると驚くことばかりで、大人(社会人)である私たちが、いかに毎日狭い感覚の世界を生きているのかということを教えてくれます。
存在していることが、とても尊いように感じ、そして「無償の愛」の可能性について、絶えず教えてくれる存在でもあります。あるいは、放置できない存在として親に義務と責任とは何かを問いかけ、厄介な重荷ともなって、精神的、肉体的に追い詰めることもあります。
このように人はそもそもその存在を持って、他者に対して考える、問う、という相互作用の中、この世に生まれてそして育ち、老いていきます。
老いていく過程でも、存在を通じて考える、問う、という行為を続けることができます。
生命の終わりをいよいよ感じることで、人生のはかなさ、虚しさを痛感するとともに、子どもと接していた時と同じように、抗えないなにか大きな力にあらためて接していきます。抗っても確実に病み衰え、次第に社会から疎外されて、忘れ去られていく存在なのかもしれないという、自分との向き合い。そうした中で、自分という存在をもう一人の自分が冷静に俯瞰していくことも、人を極めて哲学的にしてくれます。
自分が、家族が、社会が問われ、試される――老いたからこそ考えなければならないことがたくさんある。
哲学はこのように、私たちの日常にあります。
哲学というと「知識」として身につけるものだという学問的な側面を想像する人も多いと思いますが、実は、他者や自分自身との「対話」を通じて、体験するものであるのです。
哲学を体験するということは、「問い、考え、語ること」です。哲学は言葉を重視します。思考とは、「自分自身との対話」あるいは「他者との対話によって、他者の中に見出した自分との対話」であると言うことができます。
哲学とは、このようにごくありふれた、きわめて人間的な営みである。それは簡潔に「共に生きること」と言い換えてもいいだろう。互いに「問い、考え、語り、聞く」こと――そのような共に考える営みとしての哲学は、人が生まれた直後から始まり、まさに人と人が共に生きていくことそのものなのである。
考えることは、案外難しいものです。日常生活の隅々まで行き渡っているようで、実はそうではありません。なぜなら、私たちは、常識や当たり前という前提をもとに、考えなくてもいい社会を作っているからです。
常に、自分とはなにか、なぜ他者との関係が存在しているのか、そういうことを問うていたら、時間がいくらあっても足りません。だから、私たちは、可能な限り前提を共有しようとします。
自由が得られる?
常識というOSを稼働させることで、本当は大切だけど、考えると大変なことに一旦、ふたをしてみています。
この「考えること」は、一見当たり前のようでいて、実はそうではない。日常生活の中では、ほとんどできないと言っていいほど難しい。
どう考えればいいかを学ばず、ただ考えないようにさせられているということは、この世で生きていく上で必要な、何かとても大切なものを犠牲にしているか、失っていることになるかもしれません。
「自由」について、少し考えてみましょう。
「考える」ことを通じて、世の中のルール、家庭や学校、会社での人間関係、常識や習慣、自分自身の思い込み、さまざまな恐れや怒り、こだわりから、ほんの少しであっても距離をとることができます。「考える」ということは、わたしたちにとってもっとも大切な自由を得るためだと言っても良いと思います。
哲学的な思想を他者と共に行うことで、「他の人と一緒に自由」になることができるのです。哲学的な考え方の前では、人はフラットな存在になります。知識や前提、あるいは経験の量が、対話の内容に関わってこないからです。
また、他者のことを完全に理解することは不可能なのですが、でも「一緒に考えている」ということを共有することはできます。問いを共有するということは、姿勢・態度を共有することでもあります。
考えは止まらない?
哲学的な対話は、もしかしたら身体的な行為かもしれません。知的というよりも、体をつかった活動です。
というのも、対話は、相手との位置関係、机の有無、相手との距離や自分や他の人の姿勢、息遣い、眼差し、表情も思考の質と連動しています。
だから、対話が哲学的になった瞬間は、感覚的に分かる。
感覚的に分かるとは、次のような感覚によるものです。
- 全身がざわつく
- ふっと体が軽くなった感じ
- 床が抜けて宙に浮いたような感覚
- 目の前が一瞬開けて体が伸びやかになる解放感
こうした感覚を通じて、自分の「自由」に向けたビジョンを見つめることができます。哲学の知識を使ったり、立場によって言葉を分けたり、そういうことではなく、哲学的になるためには、とても個人的な体験をもとに、主観的にものごとの見方、見立て、考え方、連鎖をしていく行為です。それは、頭で考えるというよりは、自分の中に蓄えられている身体的な感覚を大切にするイメージです。
哲学の体験は個人的であり、主観的である。
また、対話は終わった後にはじまっていくものです。対話の問いは、簡単に答えが出せるものではありません。それを抱えて、考え続けていくことが大切なのです。継続的に問いに向き合っていくことから、そうした姿勢や態度から、人生というものが立ち上がっていくものです。
哲学対話でもっとも大切だと思っているのは、「自由に考えること」である。
私たちは、自由に問い、語ることによって、はじめて自由に考えられるようになるのです。
「自由」を得ているのだろうか。自分自身の感覚や感性を見極めてみたいものです。
考えることについては、こちらの1冊「【考えるとは何か?】はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内|野矢茂樹,植田真」もぜひご覧ください。
まとめ
- 哲学的思考とは?――ものごとのあたり前を疑ってみる思考です。
- 自由が得られる?――自分で考えることが自由の始まりです。
- 考えは止まらない?――問いから、自由な自分の人生が始まります。