- どうしたら、他者を知り考えながら生きていくことができるでしょうか。
- 実は、他者も自分と同じかもしれないという感覚を得ることかも。
- なぜなら、この不確かで曖昧な世界をみんな、懸命に生きているからです。
- 本書は、他者と共に考える時間「哲学対話」を実践する永井玲衣さんによるエッセイです。
- 本書を通じて、「考える」とは何か、問いを持つことは何か、を感じることが可能です。
既成の考えで生きている?
前回の投稿「【日常の中で「自分の考え」を持つことはあるか?】世界の適切な保存|永井玲衣」に続き、今回も永井玲衣さんの1冊を取り上げさせていただきたいと思います。永井玲衣さんは、大学で哲学を学び、修めた後、哲学実践者として「哲学対話」という取り組みによって、世の中一般の人と、日常的な問いに対してやりとりを続けています。
日常のなかでふと感じる疑問、例えば、違和感やモヤモヤも含めた感想や、なぜ今日も私たちは仕事に行くのか、とか、そういう感想にも近いものを思い浮かべることは誰しもあるでしょう。
しかし忙しい日常の中で、そうした問いは、原因や内容を深堀りされることなく、放置されています。放置していても、私たちが生きていけるのは、他者が作ったり、社会で運用されている理由を、「自分の意見」であると信じているからです。学校で勉強するのも、会社で仕事をするのも、自分で考えたというよりも、既成の考えを理由として知らず知らずに採用しているから、わざわざ毎朝悩むことなく1日を滞りなく過ごしていけます。
問いは、偉大である。もろく小さなわたしでは到底かなわないほどに、堅固で美しい。
問いを持ちながら、その問いについて思考を巡らせ、そうした中にあっても自分自身を俯瞰的に見つめていくために、「哲学対話」という仕組みがあると、永井玲衣さんは考えます。
哲学的なテーマを、他者といっしょにじっくりと考え、聴きあう中で、普段当たり前だと思っていることを、改めて問い直していくことは、実はわかることをふやすというよりも、「わからないこと」を増やす行為でもあります。
そもそもを問うていくと、実際には一つの答えなんてなくて、さまざまな人の数だけ意見があるし、考え方がある。実は自分自身の中にも絶対的な一つの答えなんてなくて、それも時と場合によって移ろいで行くような感覚です。
本当はひとりひとり違う?
「哲学対話」を通じて、日常の中の問いについて思考を巡らせるのは、もしかしたら、何か新しい考え方を生み出すというよりも、大切な考え方を思い出すようなそんな行為なのかもしれません。
かつてわたしの中にいて、わたしのものだった「何か」。たまたまそれはどこかへ飛翔してしまったが、たしかにわたしが所有していたのだ。
子どもの頃当たり前だった、思いつきや考え方を大人になるにつれて、残念ながら忘れてしまうこともあるでしょう。遊びがそのまま生きることにつながっていたり、誰からの見た目を気にすることなく没頭したり、あの感覚というのは、本当はまだ持ちえているものなのかもしれません。
社会人になって、社会にでると、そういう子どもの頃に当たり前だった感覚だけで生きていくことは難しくなります。より多くの人と足並みを揃えて、個人的な細やかなことについては、一旦蓋をして、結論だけをあわせておいてさえすれば、なんとかものごとは前に進んでいきます。
でも、実際には同じような答えでも、その理由は様々だったりして、例えば、ドーナツが好きだという結論があったとしても、その理由は人によって様々です。味が好きな人がいるかも知れないし、穴が好きな人がいるかも知れない、あるいはバリエーションが好きな人がいるかも知れないし、とても個人的な思い出を連想するから、という人だっている。ドーナツが好きという表面的には同じような結論であったとしても、それを支える理由は様々です。
たとえば、こうした意見や理由を対話の中で、人と共有することによって、わかり合うというよりも、いろいろな意見があって、そして、それをわからないまま抱え続けているということ自体・行為・時間を共有する。そうした試みが「哲学対話」なのかもしれません。
誰でも同じこと?
「哲学対話」は必ずしも答えを導き出すものではないといいます。生きているうちに感じたふとした疑問やモヤモヤを共有して、そしてそれについて考えている時間をともにする。そうした時間の中で、自分が変わっていくのを知ったり、あるいはそうでなかったりしながら、考え続けるという姿勢をえられることもあるのかもしれません。
対話、とくに、見ず知らずの人との対話というのは、誰にとっても難しいことかもしれません。
信頼できるひとに向けてならまだしも、見知らぬ人に向けて飛翔するのは、本当にこわいことだ。
対話というのは、おそろしい行為だと、永井玲衣さんは言います。
他者に何かを伝えようとする行為は、離れた相手に対して勢いよく跳ぶようなものであると。たっぷりと助走をつけて、勢いよくジャンプしないと相手には届くことがありません。自分と他者の間には、大きく深い隔たりがあるからです。
たとえ相手に届かないとしても、それでもわたしたちは、対話を選択することだってできます。そして、自分だけがそうした跳躍に恐れおののいていたのではなく、他者も同じようにおそれていたということを知った時、他者との学びというスタイルが見出されていくのだと思います。
世界へのわからなさに向かっているときに孤独を感じるのは、おそらく、自分だけが仲間はずれだと感じるからだろう。
でも実際には、わたしたちはみんな、世界の曖昧さ、不確実さ、複雑さに、さびしさやイライラしたりしながら、笑って過ごしているという事実を見過ごさないこともできるのかもしれません。
哲学はすべてのひとに関係する。すべてのことにかかわることができる。重要でないと思われているものも、哲学対話では考えることができる。
まとめ
- 既成の考えで生きている?――忙しい毎日、誰かの理由で生きているシーンが多いかもしれません。
- 本当はひとりひとり違う?――この当然の状況に触れていくことで、他者の存在を認めることができます。
- 誰でも同じこと?――それでも同じようにこの世界で苦労したり悩んだり、楽しんだりしている他者と共に問いを共有していくことができるかもしれません。