- ものごとを考えるとは、どういうことでしょうか。
- 実は、哲学は、日常の中に本来は溢れさせることができるのかもしれません。
- なぜなら、私たちが自分の考えを巡らせることこそ、哲学だとも言えるからです。
- 本書は、哲学実践を日々行っている永井玲衣さんによる哲学エッセイです。
- 本書を通じて、自分の感性をいかに働かせていくのか、刺激を得ることができます。
哲学対話とは?
永井玲衣さんは、大学で哲学を学び、研究した後、哲学実践者として「哲学対話」を市井の人々とともに行いながら、自らも考えることを続けている方です。哲学というと、難解なイメージがありますが、日常の中でふと「なんでだろう」「もやもやする」ということについて、考えを巡らせること、それ全てを哲学と言えるものです。
でも、私たちは、日常を「円滑」に行っていくために、こうした根源的な疑問や違和感に対して、蓋をして、人や社会が作った回答をベースに生きていることを「選択」しています。そして、そうした「選択」に対して無意識です。
子どもの頃、世の中や人生に対する問いをふと思い描いたことはないでしょうか。なぜ生きているのか、なぜこうした仕組みになっているのか、そうしたことを改めて考えて問うていくことは、大人になっていくうちに忘れてしまったかのように時間を持てなくなっているという人が多くあるのではないでしょうか。
「哲学対話」とは、所属も生き方もバラバラのいろいろな人たちが集まって、そうした疑問や問いに対して、フラットに意見交換を行い、相手の発言に耳を済ませて、共に考える時間を共有する取り組みです。
わたしたちの生は、不確定な偶然性にゆだねられている。そうならなくてもよかったが、そうなってしまったことに満ちあふれている。
まるで偶然を固めたような存在の私たちどうしが集まって、さらに偶然を重ねていく中で、私たちは、その場にあることの奇跡のようなものを感じて、考えること、そして時間を他者とともにできることの、偶然性に驚き、そして感動すらする体験を積み重ねていくことができます。
他者と接点を持つには?
絶えず不完全なものとして、自分を認めて、人との関わりの中で、それでも生きていく覚悟を見出すことも「哲学対話」ではできるかもしれません。
記憶は不完全である。だが時間が経つにつれて、少しずつ取りぼされていくのではない。もともとわたしたちのまなざしは不完全である。
社会に出て、「社会人」として生きていくと、どうしても完全で、完璧であるということを求められると思い、あるいは勘違いして、自分に過剰なハードルを設定しがちなのかもしれません。でも人間は誰しも、不完全であるということは本当だったら当たり前のことです。
自分は、想像以上に死角があって、その死角が自分を形作って、逆説的に、個性を生み出していると言ってもいいかもしれません。見えないところがあるから自分がある。そして、その死角がたくさんあるからこそ、他者とともに活動することができる。そういう死角の存在を認めあうことで、人とともにあることができる。そうした仮説に気づきを得ながら、対話を深めていくことが「哲学対話」の時間では得られそうです。
問いのもとに集まり、ひとびとと対話を重ねて考える哲学対話では、場をはじめる前に参加者にお願いをすることが多い。
- 人それぞれで終わらせない
- 自分の言葉で話す
- よくきく
私たちは、いかによく喋るかということにフォーカスして生きています。目に見えること、耳に聞こえること、その場にあることにどうしても意識が向きがちだからです。
でも、先の死角のように、その場にないもの、欠落しているもの、みえないもの、きこえないものに対して、改めて意識を向けることで、実は多くのものごとに気づいたり、全体像を意識できたりする中で、これまでなかった視点や視野を得ることができるのかもしれません。
誰かが奇妙なことを言い始めた瞬間。わたしたちは自然に「なぜ?」と問うてしまう。「どういうことですか?」「なんで?」「え、もう一回言ってください」と身を乗り出して、ききたいと思ってしまう。わたしはそれを、本当にうつくしい時間だと思う。
思うに、わたしたちの主張はきわめて似通っている。「幸せになりたい」「平和がいい」「よく生きたい」「よいものはよい」。なぜこんなにも分断しているのかわからないほどに、主張はほとんど一緒なのだ。
耳をすませて、聞いてみれば、考えや主張の合理性はひとりひとり全く異なっていることがあります。その理由の部分について、明らかにしながら、対話を深めていく時間は、手触りのある他者の存在を認識する貴重なものなのかもしれません。
それにしても、わたしはなぜこんなにも「理由」に惹かれるのだろうか。
自分の考えを持てているか?
ほとんどの場合、何かの思いが完全に伝えるとうことはない。
それにしても、私たちは、「わかり和えたのかもしれない」という勘違いを積み重ねて、他者と衝突したり、すれ違ったりしながら、社会を作っているのかもしれないと思うと、切ないような、それでも形作られているような気がする社会がすごいものだと思ってしまいます。
そもそも、人と人がともにあるということは、そのくらい曖昧なものなのかもしれません。曖昧でスキだらけだからこそ、面白みがあるというものなのかもしれないとさえ思ってしまいます。
私たちが忘れてしまった、他者と完全にわかりあえたはずだという幻のさきに共にあることの不確かさと、よくわからない可能性を見出します。
本書は、自分の言葉で、感性で、ものごとを見て、考えるということのすてきさを伝えてくれるようでもあります。問題とか、課題とか、そうしたなんだか人や社会に所与として提示された問いだけではなくて、自分で「はて・・?」と見つけた視点についてもっと素直に向き合ってみてもよいのではないか、という気持ちになります。
考えるということを見つめていくために、例えば、こちらの1冊「【考えるとは何か?】はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内|野矢茂樹,植田真」もたくさんのヒントを見せてくれます。おすすめです。
まとめ
- 哲学対話とは?――誰もがもつ問いに対して、他者と時間を共有し、深める機会です。
- 他者と接点を持つには?――個別に抱える背景や理由にふれることにより、可能かもしれません。
- 自分の考えを持てているか?――私たちの日常は、想像以上に誰かの論点でできているのかもしれません。