- なぜ、職場で傷つくこと、それを自覚・人に伝えることは、タブーなのでしょうか。
- 実は、その違和感に築くことが、よりよく働くということに繋がるかもしれません。
- なぜなら、能力主義の存在を自覚的になり、人とともにあることを知るからです。
- 本書は、「傷つく」ということから、組織と能力主義の関係に迫る1冊です。
- 本書を通じて、私たちを当たり前のように包む考え方に、自覚的になれます。
傷つきはタブー?
傷つくということは、誰にでもあることです。しかし、職場において、「傷つく」ということは、どうもタブーのように語られ捉えられているような空気感があります。「社会人」が、「傷ついた」なんて言ったら、ダメというふうにもっともらしく語られます。
そして同時に、「傷つく」本人のやる気や「能力」について指摘がセットになります。「君は、もう少し主体性をみせてほしい」とか「できないことが多すぎる」というような具合で。「傷つき」の度合いによっては、「メンタルの不調」という形で、加療を指導されることだってあります。
日常的なもやもやとした悲しみや戸惑いというのは、無かったことになされるようなことは、注目に値しないかのように、個人の問題として指摘されてしまうのです。
やる気、能力、メンタル不調など、個人の問題に落とし込むことで一見それっぽく聞こえる「能力評価」こそが、「傷つく」ことをさせてくれない職場の根源であると本書は指摘します。
本来「傷つく」ことを考えてみれば、それはひとりで勝手に「傷つく」のではなく、他者やものごととの関係性の問題であることがわかります。誰かになにか言われたり、何かを過剰に感じたり、そうした状態によって傷つくわけで、実際には、本人1人の問題であるとは言い難いのです。
個人の問題というより、「組み合わせの問題」なのです。
組み合わせの問題を覆い隠すものが、「能力主義」「能力評価」です。
これはあくまで1個人に閉じた特性や特徴を、あたかも「能力」という万能な尺度が存在するかのように、“客観的に”指標化したり、数値化し計測したりします。実際には、そんな「能力」は存在しないかもしれませんが、私たちは、これまでの教育の成果によって、測られなれているため、疑うことを知りません。
本来的な問いは?
キーは、「誰が問題か?」ということではなく、「組織の何が、この人を追い込んだのか?」という論点です。
1個人の問題として提起するのではなく、組み合わせに問題の根源を置くことによって、建設的な対応策を検討することができます。適切な配置や、組み合わせをトライしていけば、問題を解消することにつながるはずなのです。そしてそれこそが、組織が担うべきマネジメントであるとも言えるでしょう。
私たちが当たり前のように「誰が問題か?」を語ってしまうことで、本来組織としての問題が、個人の問題にすりかわって、自らを苦しめたり、集合して仕事をすることの利点を活かしにくい状況を招いてしまっていることに気づいていきましょう。
人を生かすも、殺すも、組織であると思われます。ひとりひとりは、とても真面目な存在で、正しいことを信念をもってやりたい!と思っていても、組み合わせや環境次第では、悪事に手を染めることだってあります。
昨年から今年にかけて、自動車大手メーカーの不正問題が相次いで明るみに出ました。
ダイハツ工業は、2023年12月に安全性能試験の不正が発覚し、2024年においても影響は続いています。また、スバル(富士重工業)も同じように完成検査時の燃費・排ガスデータデータ改ざんの問題が指摘され、同様に日産自動車も品質管理の問題が取り沙汰されています。トヨタも子会社への下請法違反などを指摘され、日本を代表する自動車メーカーのガバナンスが問われる事態は深刻です。
こと、ダイハツ工業に関しては、第三者の調査委員会において、「組織風土」の問題が指摘されました。これは「自分や自工程さえよければよく、他人がどうあっても構わない」という風土が、認証試験の担当者に対するプレッシャーや部門のブラックボックス化を助長し、リスク情報の経営層への伝達を滞らせることに繋がりました。
- 「できて当たり前」の発想が強く、失敗があった場合に激しい叱責や非難
- 全体的に人員不足、余裕がなく眼の前の仕事をこなすのに精一杯
- 机上で決定した日程は綱渡り日程で、ミスが許されない
- なんとか力業で乗り切った日程が実績となり、むちゃくちゃな日程が標準となる
こうした「組織風土」がひとりひとりは善良なる従業員を、ダークサイドに落とし込んで、不正をさせてしまいました。明らかに組織の問題であるはずなのに、個人にしわ寄せが行くことで、不正を防ぐことができないだけではなく、助長させ、また自分たちがさらに働きづらい環境を作ってしまうという環境が、これまで継続してきています。
よほどのことがない限り、組織の喫緊の課題に「個人的なこと」は入ってきません。
3つのステップによりこうした「職場で傷つく」と思いもしない、思いたくない、言えない社会を生み出しています。
1.問題の個人家により、「職場の傷つきなんて個人的なことだよね」と軽んじられる。
2.個人的な中でも「能力(素質)」の問題だと追い打ちをかけられる。
3.さらに中でも「コミュ力」の問題とすることにより、とどめを刺される。
問題が明るみに出るだけまだましで、会社の当たり前の環境の中に溶け込んで、表に出ない問題もたくさん社会には存在していると思われます。また、問題として認識しにくいのは、「傷つき」苦しんだ人は無言で去っていくことにより、生存者バイアス(残った人を中心に特徴分析と学習が一方的に、進んでしまう)に取り憑かれ、問題の発見と解消をすることなく、「組織風土」を助長させていくことになっていると想像されます。
フォーカスすべきは?
「能力主義」とは、社会を納得性高く統治するための原理原則として運用されてきました。限りある資源を配分したり、限りある権利のために個人を選別するために、誰しもが納得できるような「平等な」機会提供とロジックが必要だったのです。
江戸時代までは身分制度がその代わりをしていましたが、明治時代の政策によって、教育の力も相まって、人を能力で図り、登用すること、そして評価し、配分する社会が形成されていきます。
「できる人はもらいが多く、できが悪ければもらいが少なくてもやむを得ない」と社会全体が腑に落ちている状態です。
取り分を決めるロジックは、いつの時代も、究極の強制力をもつか、もしくは、納得性を持つかの二択と言っても過言ではないと、著者・勅使川原真衣さんは言います。
本来的には、「誰と何を、どのようにやる環境にいるのか?」という問いが、人と人が生きていく上で、状況をよりよく認識するものになるはずです。こうした問いを共有することによって、「傷づく」ことに対する解決策を見出すための考え方を変えていくことができます。
「こういう能力があれば傷つかないのに・・」
から
その人の「能力」の問題というより、組織の「関係性」に課題がある状態のことである。
へ。
個人の「傷つき」は<組織の問題>です。
「能力主義」から脱して、関係性に着目していくためには、次のような理解をベースにコミュニケーションや考え方をめぐらしていくことが大切です。
1.あなたも私も、揺れ動いている。(「能力」とは刻々と変化する「状態」である)
2.「能力」を上げるのではなく、「機能」を持ち寄ると考える。
3.試行錯誤すべきは「組み合わせ」である。(他者比較による序列化の無効化を志向する)
「正しいのは誰か?」という問いは、忘れてください。
人と生きる限りにおいて、おそらくどこにも使い手のない不毛な問いです。
誰も、自分の目線で「正しい」ことをしているはずですから、議論は平行線をたどります。
フォーカスするべきは、個人ではなく、状態であるということです。調子がいいのも、調子が悪いのも、組み合わせの問題で、それを解決するためには、やはり人の組み合わせを調整し続けていくことこそが、本質的な解決に届く方策なのです。
勅使川原真衣さんの著書は、生きづらさから解放してくれる視点をたくさん提供してくれます。ぜひ「【人は、なぜ共に働くのか?】働くということ 「能力主義」を超えて|勅使川原真衣」の投稿もぜひご覧ください。
まとめ
- 傷つきはタブー?――感じたくないし、表に出したくないのは、個人に依拠させる能力主義のせいです。
- 本来的な問いは?――誰が問題か?ではなく、どの組み合わせが問題か?です。
- フォーカスすべきは?――能力ではなく、状態(関係性)です。