【人は、なぜ共に働くのか?】働くということ 「能力主義」を超えて|勅使川原真衣

働くということ 「能力主義」を超えて
  • いかに、協働(他者と共に働くということ)を目指せばいいでしょうか。
  • 実は、能力のありなしという考え方に縛られないことです。
  • なぜなら、いわゆる能力というのは環境次第だから。
  • 本書は、人の能力と協働の本質について考える1冊です。
  • 本書を通じて、チームで仕事をするための根本的なマインドセットを見いだせます。
勅使川原真衣
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「能力」は本物か?

能力で人を測ることが、いかに当たり前か、自分を振り返ってみる機会を本書から得てみましょう。能力のある・なしで、人を断じていると、それはそっくりそのまま自分の生きづらさにつながっていくかもしれません。また、能力のある・なしは、あくまで幻想でしかありません。

「能力」というものをこの目でみたことがある人は、どれだけいるでしょうか。

おそらくほとんどの人が、その存在をなんとなくは認識したいと思っているけれど、能力とは何なのかを具体的に知らないのでは?実際に能力というのは、人間が特定の環境下で、人を個別に判断するために便宜的に設定しただけのものです。

「正確に測る」と称してテストをし、他者のそれと比較、「もっとああしろ、こうしたほうが将来のためだ」と「欠乏」を突きつけてみたり、「上には上がいるぞ」と発破をかける。

人は、比較をすることに熱心です。比較をすることで、“分かりやすさ”が助長されて、自分の生存本能にピンときて、脳がラクにものごとを判断できるようになるからです。

しかし、これではいつまでたってもバイアスの存在に気付きながらも、それでもよりよい社会を気づいていくことを目指すことから遠ざかってしまいます。一元的に「能力」という基準で人々を測ることは、翻って互いの生きづらさを助長させていきます。そんな社会でこれからもOKでしょうか。

学校教育に呼応するように、会社でも「能力開発」とか「(日本的)リスキリング」とか、そうしたプログラムを盲目的に取り入れながら、人を測るということを当たり前に推進しています。時に、人のモチベーションの源泉になる能力評価ですが、多様な人材を!という社会や企業の方針とは真逆の活動となりうるものであり、これらのバランス感覚をいかに取り入れてくのかということも経営課題になっているのです。

明治以降の社会の成長過程において、よりよい労働力を供給するために、国は教育制度を整備しました。その中で、人は画一的なものとして取り扱われて、社会が理想とする従順で、よみかきそろばんが一定程度でき、かつ、ミスを侵さない正確性を持つ人材を理想像として、それはまるで機械のように取り扱われながら、学習喚起がされてきました。

国は、国民を「不完全な」ものとして改善の余地ある存在として常に位置づけ、「人格の完成」を目指すことを一つのゴールとしました。

「本人の努力次第で、能力は向上し、能力が向上すれば、人格の形成と成功に向かっていけるという」プロパガンダにより、国は巧妙に階層主義を隠しました。しかし、実態としては、親の階層を子どもが受け継ぐ階層が可視化されてきたに過ぎません。

生得的な能力の差異をなるべく否定し、「子どもにはだれでも無限の能力、無限の可能性がある」と見る能力=平等観が広まっている。

コミュニケーション力、思考力、地頭力などなどの「能力」は抽象化、汎用化を経て、神格化のレベルにまで到達しようとしています。

人が人を選び・選ばれること――それも能力によって――の正当性は政治的プロパガンダや、能力開発業界が牽引してきた能力の商品化により広範囲に流布され、もやは疑いのない常識にまでなりました。

「その人は何ができるのか。どんな貢献をしてくれるのか?」によって人の学びや、仕事を采配していく仕組みが上手に構築されてきたのです。

キーは、関係性?

全体がうまくいかないことを個人の能力のせいにするのは、いかがなものでしょうか。

そして、次のような問いを自らに投げかけてみるべきです。

  • はたして、「よい個人」(能力の高い個人)が「よい組織」(「成果」を上げられる組織)をつくっているのか?
  • 逆もまた然りで、「成果」がいまいちな組織は、特定の悪い個人(能力の低い個人)が悪さでもしているのか?
  • 一人ひとりがもっと「優秀」で「稼げる」存在ならば、組織は安泰なのか?
  • ちなみにその「優秀」とは、額に「優秀」とでも書いてあるのか?
  • この世に「望ましい性格や能力」と「望ましくない性格や能力」があるのか?
  • 組織で問題を起こすのは、前者を持っていない人なのか?
  • 言い換えると、自分がまともに仕事ができているのは、自分の能力が高くて、「優秀」だからなのか?
  • あなたを「良し」としてくれている周りのメンバーに恵まれていたり、景気や市場環境がたまたまよいことも多分に影響しているのでは?
  • 本当は、組織として策を講じるべきところを、個人の能力の問題に矮小化しているのではないか?
  • 個人の能力の問題にしたほうが都合のいい誰か、つまり特定の人の利害と結びついたまま、問題が「設定」されていないか?
  • 分かりやすさが実際の有用性より優先されるなど、問題解決用に問題視されていないか?

人は、存在する環境によって生きます。

その環境には、他者も当然含まれます。組み合わせによって、その人が開花していくということを前提にものごとと向き合っていく必要があります。

そもそも、例えば、企業や組織はなぜあるのかということです。人は一人では、大したことをなすことはできません。だから、集まり、互いに協力をしあいながら、足りないピースを埋め合わせるように活動していくのです。ひとりひとりのあるかよくわからないような「能力」に執着するのではなく、協働の本質に目をむける方が、より本質的だし、生産的です。

目指すは「走る車」

個人の良し悪しや能力の高低のせいにするのではなくて、全体の組織を車になぞらえて、「機能」をカバーするように個人が存在しているというスタンスで、協働を見つめるようにしてみることがコツです。

「あの『エンジン』ってすごよね!やっぱりあのくらいの『エンジン』でなきゃダメだよね!」じゃなくて、今、すでに「エンジン」があるのなら、そこを補うべき点は何か?それを周囲が認識した上で、周りの「機能」をカバーし合って、全体としてうまくいくことを運ばせる方法を検討・調整し続けるという話なのです。

個人に多様な「機能」を求めてはならないし、それは自分自身に対する見立てでもそうです。ありとあらゆる機能を詰め込むことに躍起になるのではなくて、そしてそれがあるなしを良い悪いと断じるのではなく、素の自分を活かして注力したい領域と、今後開発していきたい領域を分けて、考えてみることが、自分を含む人に対する素直な視線になります。

ひとりひとりの人は、レゴブロックのようなものです。小さな小さなブロックは、全体からすると、見えるかどうかもよくわからないような存在です。

そして、本来的な機能としては、全体の中のごく一部をになっているに過ぎません。でも、昨今の「能力開発」や「能力主義」の論調は、そんな小さなレゴブロックに、「かっこいい船になりなさい!」と言っているようなもので、こうしたメタファーからは、現実離れした感覚を体感することができるでしょう。

「よい色」「よい形」「よい大きさ」を一元的に規定し、画一的な「よい船」(という名の小舟なのですが)像を煽ることは、非常にもったいないことです。

良さを「一元的に」見ない、ということも現代を生きる私たちに突きつけられる課題です。これでは、人間を商品化するロジックをこれからもひた走り、幸福を感じにくい社会を創造し続けていくことにつながっていってしまいます。

良し悪しや優劣をつけるのではなく、人と人の持ち味の組み合わせを信じて、活動をしていくことを志向したいものです。

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いかに他者とともにあるか?

「能力」というとどうしても「欠乏」感を伴います。

不足しているから、補っていかなければならないという視点があまりに強化されていくと、自分の素にもっている素晴らしさに気づくこと、相手の同じような自然の素敵さに気づくことができなくなってしまいます。また、「欠乏」が共通言語になっている社会では、不寛容さ、能力主義的な判断が広がるようになり、生きづらさにもつながっていってしまいます。

大切なことは、すでにあることをもっと大切にすることです。すでにあることは、奇跡に近いものです。足りないものだけにフォーカスするのではなく、すでにあるものをいかに活かしていくかという心持ちで、人(自分を含む)を丁寧に付き合ってみることが大切です。

あちこちぶつかりながらでも、お互いを尊重することを忘れない限り、必ず道は開けてきます。

ここに他者と働く本当の醍醐味があります。

自分や他者の持つそのままの力を、素直に受け止めてあげることが、社会を少しずつより良い方向へと向かわせる情熱へと転換させていきます。

余談になりますが、このことを考えていると、トマス・アクィナスのpassion(情熱)というラテン語は、passive(受け身)の語源になっているという話を思い出します。

社会を変えるのは、必ずしも強大な力だけではなく、誰もが持つ感覚や、気持ちを味わい、それを出して、しっかりと受け止めてもらえる環境次第なのではないでしょうか。

本書が主題とするのは、「個人の能力」という閉じた可能性から、組織や会社が持つ本来的な要望である「関係性」の力へと視点をずらすことにあります。急激な社会の発展を支えるために、たしかに個人の能力にフォーカスし、一元的な「能力開発」という名で、ひとりひとりを喚起していくことが理想的になってしまった時代は存在したのだと思います。しかし、これからの時代を冷静に見つめる時、そうした一元的な資本の原理に閉ざした世界観は限界に来ています。

どうしたら、よりよく生きることができる社会になるのかを、考えながら、資本の原理だけによらない世界観を実現していくためにも、人や協働への見立ては不可欠です。

人を選ぶのではなく、これからは、「自分のモード」を選ぶことにフォーカスしてみればよいのではないか?と、著者の勅使川原真衣さんは、問いかけます。

他者を科学的客観性だの、長期インターンシップだのを通して、「正確に」把握し、「選ぶ」。これにいくら一生懸命になろうとも、所詮、万物は流転しています。自分も他者も、絶えず揺らぎの中にいるのですから、どこまでも正確に「予測」することには限界があるのではないでしょうか。

キーは、いかに自分のものの味方について、客観視して、日々の活動を作り出していくことができるか?ということにほかなりません。人に対して、一元的な視点で、良し悪しで判断する目線を向けるのではなく、他者と組み合わせながら適切な職務に相対させることは、いかにできるか?について問い続けられるだけの自分に変容することが望まれています。

大事なのは、一つの勝ちパターンのみを良しとしないことです。

本来的には、「永遠の未完成」である自分と人を、見つめられるか、その上で、いかに「他者とともにあることができるのか」を考え続けていくことが、教育であり、社会のありかたそのものにつながっているのです。

ともに働くという観点では、こちらの1冊「【人は、人のためにある!?】働く人の資本主義|出光佐三」も大変深い視点を提供してくれます。おすすめです!

まとめ

  • 「能力」は本物か?――便宜的に作られ、人々が盲信している概念でしかありません。
  • キーは、関係性?――ひとりひとりの機能の連鎖にのみ、可能性があるのです。
  • いかに他者とともにあるか?――これを考え続けていくことが、教育であり社会をなします。
勅使川原真衣
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