【縁を育むことが生きること!?】働くことの人類学 仕事と自由をめぐる8つの対話|松村圭一郎

働くことの人類学 仕事と自由をめぐる8つの対話
  • 人がよりよく暮らしていく時にどのような視点が大切でしょうか。
  • 実は、人の縁に尽きるかも知れません。
  • なぜなら、たとえお金があっても、豊かな物に囲まれても、幸せの根源は、人だからです。
  • 本書は、文化人類学の観点から、人が生きていくことを見つめる1冊です。
  • 本書を通じて、改めて何がよりよい暮らしを支えていくものなのか、視点を得ることができます。

ニューギニアの人々の暮らしから?

文化人類学者の松村圭一郎さんの対談に関する1冊『働くことの人類学 仕事と自由をめぐる8つの対話』を取り上げてみたいと思います。松村圭一郎さんの過去の著書については、こちらの投稿「【いかに公平な世界をつくる?】うしろめたさの人類学|松村圭一郎」や「【ものごとを考えるための人類学的ヒントとは?】文化人類学の思考法|松村圭一郎,中川理,石井美保」もぜひご覧ください。

文化人類学は、人間の文化、社会、習慣を研究し、異文化理解を深める学問です。フィールドワークを通じて文化の多様性を明らかにし、文化変容やグローバリゼーションの影響を分析します。

文化人類学は、よく他者を知ることについて語られることが多いように思いますが、実は、他者を知るということは自分自身を知ることにもなります。世界では、わたしたちと明らかに異なる生活をしている人がいる。しかし、全く違う暮らしでありながら、人として普遍的に大切にしようとしていることや、感覚は同じものがある。そうした、違うようで同じような、あるいは、同じようで違うことの解像度を上げていく過程は、自分自身の深層心理に迫る道筋でもあります。

ニューギニアでは、「WANTOK」という言葉(概念)があります。「WAN」は「one」、「TOK」は「talk」、ひとつのことばという意味です。「同じ言葉を喋る民族」のことを指します。この同じ言葉を喋ることをとくに重視するということです。仮に生まれ育った村を出て、街でビジネスを行うことになって、も「WANTOK」はとても重視されます。

いざというときに味方になってくれるような「内」のつながりをキープすることができるか、が、ニューギニアの人の生きる世界観です。街に出てずっとビジネスをやっていた人でも、「WANTOK」の人を雇って面倒を見ていたりすると、晩年になって帰郷した時にとても尊敬される人物になるといいます。

彼らにとって働くことの先に最終的にある目標は、自分とつながりのある人間関係のなかで認められたり、尊敬されたりするという価値に転換することなんですね。

貝殻の貨幣<タブ>の謎

ニューギニアの人にとって、お金(仕事) or 家族が大事?という質問は成り立たないといいます。なぜなら家族がいなければ、お金を稼ぐことが成り立たないからです。常に両方がたいせつであるという安定感の中で、働いているのです。

しかし、日本では、20歳前後からお金を稼ぎ続けて、60~65歳になって定年を向かて「自分の人生ってなんなんだったっけ?」となって、働いてきたことが人生のなかでどのような意味があったのかを想像することが、難しくなってしまうのが現実ではないでしょうか。

ニューギニアの人の感覚の中に、「働く」はどこまでいっても目的ではなく手段であるということを見ます。

お金よりも大切なこと?

そもそも、ニューギニアのゆとりのある考え方の背景には、豊かな土壌があると思われます。南国の温かな気候の中で、食べるものに困らないので、極論働くことをしなくても、村で面倒を見てもらえます。

そもそも豊かな土地ですから、お金を稼げなくても、親族のつながりのなかで食いっぱぐれるようなことは基本的には起きないんですよね。

貝殻の貨幣<タブ>の謎

なんとなく、お金に対する感覚の違い(日本とニューギニアの違い)はこうした生活環境にも起因しそうです。私たちの世界では、お金がなくなったらドロップアウトするしかない(ととらえがちな)世界です。老後2000万円問題だって、結構なシビアな感覚で指摘されていました。日本ではお金の中だけで生きているという感覚を強く覚えます。

ニューギニアの人たちの感覚はもっと広くて、お金は自分たちが生きている世界の一部でしかなくて、仮にお金が亡くなったとしても大丈夫なところがすごい感覚です。だからこそ、むしろお金よりも、人と人のつながり、同じ言葉を喋る中間(WANTOK)の中で生き続けることに強い意味と意義を見出すのです。

目的的であることを避ける?

働くことについて考える時、「**のために働く」という「**」を埋めることを、どうしても強いられているような気がしてしまいます。お金なのか、生活なのか、生きがいなのか、そうした明確に言語化できないでいると、なにか指摘されてしまうような、そうしたことが実は生きづらさにもつながっているのかも知れません。

というのも、フィールドワークの対象となっている民族の方々で、「働くの意義・意味」を明確に言葉で語れる方って実はそんなにいないからです。

「何のために働くのか」「どうして働くのか」っていう質問って単線的な時間観に基づいていますよね。未来の目標を立て、計画を立て、それに向かって頑張って実現する、みたいな感じなんですが、それは私が調査している人たちには、あまりない考えなんです。

働くこと・生きること

いろいろやっていたほうが、きっといいことがあるとは言えるものの、そもそも未来に向けて厳密な計画のもと活動しているかと言うと、そうでもない。でも、もしかしたらそれでもいいのではないでしょうか。

なんとなく良い感覚をもって、進んでいくことを続けていく中で、結果的によりよい世界観が広がっていくような、そうした生き方がもっと肯定されてもいいのかも知れません。

どうしても、日本で働いていると、「ドロップアウト」への恐怖がつきまとってくるように思います。1度でも足元が揺らいだら、なかなか復帰できないという感覚はどこから来るのでしょうか・・。

それこそ人は一人で生きていけないからこそ、社会を作ると思うのですが、その社会がどのような役割をになっていくべきなのか、プリミティブな生活をしている人たちから学ぶことは多いように思います。

そして、働くことをについて考える時、なにか目的が必ずしもなくとも、単純に、その行為自体がなんとなく楽しいし、心地よいからという感覚をもって淡々と進んでいくことがもっと肯定されても良いように感じます。

まとめ

  • ニューギニアの人々の暮らしから?――お金を稼ぐことよりも人とのつながりを大切にします。
  • お金よりも大切なこと?――世界には、つながりの中で生きることが重視される社会もあります。
  • 目的的であることを避ける?――活動すること自体に意義・意味があってもいいと思います。
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