- 自由とはなんでしょうか。
- 実は、世界の見立てでもたらさせるものかも知れません。
- なぜなら、私たちが信じているものは本当は「ない」かも知れないからです。
- 本書は、田坂広志さんがさまざまな言葉を通じて見つめる世界観をストックした1冊です。
- 本書を通じて、世界の見立てを更新して、そこからの自由のヒントをえられるかも知れません。
世界は見立て次第!?
世界は、自らの見立てでできています。
確固たる現実があると思われがちですが、実は、人それぞれの状況や価値観で、世界は何色にもなります。想像以上の玉虫色の世界を生きていることをまず、想像してみることから始めてみましょう。多様な時代であると言われますが、まさに、多様性とは、他者の世界の色を想像することかも知れません。
ある人には、お皿の上に乗った、真っ赤な林檎が見えます。ある人には、画材かも知れませんが、ある人は次の発売されるiPhoneのニューモデルを想像しているかも知れませんし、ある人は昔の懐かしい記憶を思い出しているかも知れません。
この世界の見立ては、実はとても有用です。人生でさまざまな困難や問題にあたったときに、ものごとの捉え方を変異させることで、もしかしたら解決の糸口や、あるいは、問題として認識しないことだってできるかも知れません。
その解決策は、実は、しばしば、逆説的な方法の中にある。
我々は、いま、ターニング・ポイントにさしかかっている 『ターニング・ポイント』フリッチョフ・カプラ
それこそが、「価値観」の転換です。
「世界をどう変えるか」の前に、「世界をどう見るか」を検討してみましょう。この方法は、ときに不思議なほど有効に、問題を解決することができます。
例えば、職場における人間関係だってそうです。苦労の中で、どうしても他者に意識が向いてしまいます。でも残念ならが他者ほど変えられないものもありません。ポイントは、その人やその人との関係、あるいは、それを包み込む環境について意識を向けて、その状態や環境をどう見立てるかを検討するしてみることです。
その人の背景を深く知っていくことで、その人の人格ではなく、その人に言動をさせている環境という原因を見つける事ができるかも知れません。その人の人格を否定することなく、バックグラウンドを見つめながら建設的な取り組みを見出すことができるかも知れません。
このように、「価値観」の転換による問題の解決は、我々の人生において、一つの叡智とでも呼ぶべき素晴らしい方法であるが、実は、それは、我々人類の直面する諸問題の解決においても、大切な叡智である。
我々は、いま、ターニング・ポイントにさしかかっている 『ターニング・ポイント』フリッチョフ・カプラ
状況を嘆くのではなく、それを機会に、自らを成長させていく心構えを育ててみましょう。
世界はすでに輝いている!?
誰にも平等に訪れる死に直面した人には、世界が輝いて見えると言います。
実際に本書の著者・言葉の編者でもある田坂広志さんも、ご病気で死を間近に感じる中で、人生の意味を改めて見つめられています。田坂広志さんが取り上げる若くして亡くなった医師・井村和清さんの言葉が重なります。
小石までが輝いて見えるのです
『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』井村和清
井村医師は1947年、富山県生まれ。日本大学医学部卒業後、沖縄県立中部病院を経て、草創期の岸和田病院に内科主任として入職し、患者さんのため診療に精勤しました。しかし、長女の飛鳥さん誕生直後、右膝に悪性腫瘍が見つかり、77年11月、転移を防ぐため右脚を切断。その後、リハビリを経て同院に復帰した義足の井村医師は、患者さんから「あの先生のために頑張る」と言われるほど尊敬を集めたが、非情にも腫瘍は両肺に転移。井村医師は、愛する妻子やまだ見ぬ2人目の子を残して死にゆく無念、自らの来歴や医療観などを手記として、残された約5カ月の間につづりました。
自分の命が、よくばくもない。そうわかった人に見える世界というのは、どんなものなのでしょうか。本当にそのように経験した人にしかわからないのではないかと思いますが、しかし、彼らの言葉によって、私たちも想像力を働かせることができるかも知れません。
そして、そのことが、限られる命という奇跡を生きていく強さとして、私たちになにか考えを与えてくれるような気もします。
井村和清さんの見た世界は、どのようなものだったか・・・
その夕刻、
分のアパートの駐車場に車をとめながら、
私は不思議な光景を見ていました。
世の中が輝いてみえるのです。
スーパーに来る買い物客が輝いている。
走りまわる子供たちが輝いている。
犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、
小石までが美しく輝いて見えるのです。
アパートへ戻って見た妻もまた、
手を合わせたいほど尊くみえたのでした。
自分の足元が崩れていく感覚の中で、見慣れていたはずの世界が輝いてみる感覚とはどのようなものであったか・・すべてのものごとはすでに光り輝いているのかも知れません。
この奇跡の時間を改めて奇跡として感じることができるか、井村和清さんや、田坂広志さんの語る言葉を通じて、当たり前を当たり前に終わらせない考えを持ってみることもとても大切なのかも知れないと思います。
百年にも満たない一瞬の生を駆け抜けていく、
小石までが輝いて見えるのです 『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』井村和清
儚い存在
そんな私たちでありながら、一瞬一瞬のきらめきを知ることができる、私たちでもあるのです。
境界が原因!?
なぜ私たちの心に苦しみが生まれるのか・・そうした問いに一つのヒントを提供してくれる言葉があります。
本来、我々の生きる世界に、境界は無かった。
そこに、我々の自我(エゴ)が、自ら境界を作り出し、
その境界によって自己と、他者を分け、
そこに葛藤と苦しみを生み出した。
これは、思想家ケン・ウィルバーのものです。
私たちはこの肉体の中にあるものが自己であると認識しています。でもそれって本当でしょうか。外にいる人は全部他者?確かにそうした境界を引くことができるかも知れません。でも、自分自身ってどうやって作られているのかに意識してみると、この境界がゆらいできます。自分という存在の言動や、思想は、その周囲の影響を大きく受けています。
育った環境かも知れないし、いまいる会社や、家庭環境が大きく影響して、自らの考えや、そこから生み出す言動を生んでいます。
そう考えてみると、自分なんてものはないのかも知れません。環境の中に溶け込んでいく自分という存在を目前に、私たちは、境界の存在を疑い続けることができます。
こちらの1冊「【本当のあなたの「個性」はどこにある!?】私とは何か「個人」から「分人」へ|平野啓一郎」やこちら「【仏教の教えを一言でいうと!?】完全版 仏教「超」入門|白取春彦」も同様に、確固たる自分を否定しながら、さらに自由な視点を提供してくれます。
私たちは、驚くべきことに自己の中にも肉体と精神という境界を作り出して、そこにも葛藤と苦しみを生んでいます。あるいは、所有という概念自体も、苦しみの根源だったりします。
その葛藤や苦しみの根源が、
我々の心は、本来、境界の無い世界に、自ら境界を作り出し、葛藤と苦しみを生み出している。『無境界』ケン・ウィルバー
我々が自らの心の中に作り上げる
「境界」という幻想であることに気づく。
もっと自由にものからも、考え方からも開放されて、世界に溶け込んでいくような、そんな感覚で日常を続けていきたいものです。
禅の言葉に次のようなものがあります。
本来無一物。
これは、人は本来何も持っていない。ということを伝え、そして、何かを所有することや、その境界を否定することです。こうした世界観でものごとを見ていくと、発想が変わってくるような感覚を得られます。でも長続きしないので、絶えず、自らに意識する機会を提供するために、私たちは日常の中で、自分を見つめ続けていくのかも知れません。
死角だらけの世界で、一生懸命に、感じて、考えて、学び続けていく。
禅の思想については、こちら「【人は本来何も持たないし、持てない!?】[持たない]|枡野俊明」もぜひご覧ください。
まとめ
- 世界は見立て次第!?――世界は、見る人の心で、さまざまな姿になります。
- 世界はすでに輝いている!?――すでに目の前にある奇跡を「どのような心で、捉えるか」です。
- 境界が原因!?――本来境目のない世界に線引をして、そのことが苦しみの原因になっています。