- 悟ることって、難しいイメージがありますか!?
- 実は、そんなことないです。
- なぜなら、ブッダの思想はしっかりと当時の市井の人々にも伝わったからです。
- 本書は、仏教の本質的な教えについて説き、悟りへのハードルを取り払ってくれます。
- 本書を通じて、どのように生きれば良いのかについてのヒントを得られるでしょう。
「悟り」の誤解とは!?
悟りは、一部の人のものでも、難しいものでもない、というのが本書の見解です。たしかにブッダが行きた時代において、悟りはもっと一般的だったのかもしれません。実際にブッダも多くの普通の一般人に対して、考えを普及して、彼らも自然に受け入れていたわけですから、本当にシンプルで、日常の中にありふれた感覚だったのかもしれません。
でも、仏教の誕生から何百年も経って、今、悟りはどこか特別で、難しいものという印象を持ちます。これまで積み重ねてこられた仏教の大きく深い世界観の中で、身近なものとして認識しづらいです。
悟りには、誤解がつきまとっています。
1つ目の誤解は、悟りを得れば神通力、すなわち特別な超能力のようなものが備わるというものである。
まえがき
悟っても超能力は持ちえません。むしろ悟ったとしても、煩悩はたち現れます。ただ、その煩悩に悩まされずにすみ、すみきった気持ちでものごとに向かうことができます。
悟りについてのもう一つの誤解は、実際に悟るのは凡人にとってはなはだ困難だということである。
まえがき
悟りがそれだけ困難なものであるならば、ゴータマ・シッダールタの説いた仏法は、最初から多くの人にとって縁遠いものになってしまっていたでしょう・・。事実、ゴータマ・シッダールタは、誰にでもできるかんたんな方法だと述べています。
本当の「悟り」とは!?
悟りとは、物事をありのままみるようになること
まえがき
悟り自体をありのままにとらえることが大切です。
解脱とか、涅槃とか、悟りとか、そういう言葉自体が持つ、神秘性や奥深いイメージに、自らを洗脳してはいけません。言葉がもつ先入観を捨てて、ものごとをみること自体にフォーカスすることが、それこそ悟りに近づく行為になります。
ものごとのありのままが見られると、
・自分と対象の距離がなくなって、すべてと自分が混じり合ってしまう瞬間を経験します。
また、
・すべて赦されて包まれている感覚も生じます。自分が今しなければならないことが、強制されているものとしてではなく、自然な行いのひとつとして明瞭に了解されます。
そして、
・時間が以前よりもゆっくり流れるような感じられ、仕事や作業などの効率がよくなります。
悩みや問題、あるいはまた解決手段は、自分がそのように名づけた幽霊にすぎない。
創造が欲望をふくらませる
ある人は、それを悩みと呼び、あるい人は、それをなんとも思いません。悩みだけでなく、解決手段だってそうであるのです。自分の心が勝手に生んだ、妄想の中に囚われて生きていては、苦しみの中に身を置き続けていることと同じなのです。
幽霊がいる!と思う人には、幽霊が見えます。でも、それは他の人にとっては、単なる柳でしかないのです。
想像する心から離れるということである。
欲から離れる
ものごとをありのままに見るとは、自分を関わらせることなく見るということだ。純粋に見る。ただそのものとして見る。思い込みの心や感情をまじえずに見る・・・、それが悟りと言われているものです。
「縁起」を知ろう!?
ものごとをありのままに見ると、この世界は、仏教にとってどのようにとらえられるのか・・、それは「縁起」という言葉に集約されています。
縁起とは、すべてのものごとがつながっているということです。人も、動物も、自然もありとあらゆるものが、つながり、つながることでのみ、存在しているというのが、世界観です。
善い行いをすれば、善い縁起をまねき、悪い行いをすれば、悪い縁起をまねきます。
この事実に気づき、そこから世界を見ることが、悟りに向かうのです。
縁起を知る意味は、現状から原因を探ったり当てたりすることではない。そうではなく、この世界は互いに互いを支えているという関係性を知ることによって、互いにたいせつに接しなければならないと充分に自覚して実践すること、よい縁起のためにみずから善に向かうことである。
縁起
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まとめ
- 「悟り」の誤解とは!?――悟りは難しいものでも、神秘的なものでもなく、日常の中に潜んでいます。
- 本当の「悟り」とは!?――ものごとをありのままにみることです。
- 「縁起」を知ろう!?――すべてのものごとはつながってのみ、存在しているのです。