- 非常に因果関係が絡み合っていて複雑な問題が増えていると感じませんか?環境や移民、人口、そして戦争、あるいは、もっと身近な居場所の問題、働き方の問題とか・・
- 実は、私たち自身にこれらをデザインの力を使って解決する心構えが必要なのかもしれません。
- なぜなら、デザインとは職能ではなく、本来私たちひとりひとりが少しつづ持ち合わせているセンスであるからです。
- 本書では、そんなひとりひとりのデザインを解放して、民主化するのか?そんな思想を「コ・デザイン」として定義して、俯瞰しています。
- 本書を読み終えると、そもそもデザインとは何なのか、そしていま、社会にはどんな問題があるのか、そしてそれをデザインの民主化のチカラでどう解決するのか?などについてヒントを得ることができます。
問題が複雑化して、意地悪になっている。
「X町は急激な人口減少が進んでいる。A氏たちはどんなまちづくりをすべきか?」
取り組む「問題の違い」から考えてみる
問題には、3つあるといいます。
1)シンプルな問題(Simple Problem)
2)複雑な問題(Complex Problem)
そして、引用にもあるような
3)厄介な問題/意地悪な問題(Wicked Problem)
です。
シンプルな問題とは、例えば、「A氏は自分の経営するお店の中がなんだか暗いことに気づいた。お客さんに明るい印象を持ってもらうためにはどうすればいいのか?」というような問いです。
複雑な問題とは、例えば、「A氏らは店の経営の合間に、地域振興の市民団体を運営している。X町への観光客を増やすためには、何ができるだろうか?」というような問いです。
シンプルな問題の解決策を導くのは簡単でしょう。照明を工夫すれば良いのです。また、複雑な問題も実は、解決策を導いたり、その実行に手間がかかるので、複雑ではありますが、課題の設定を「観光客数」と定義できているため、難易度はそこまで高いものではありません。
しかし、引用にあるような厄介な問題/意地悪な問題は、とても多くの因数が絡み合っていて、どこから解決策を導いて良いのか、その問題すら分かりづらいことにあります。Wicked Problemという言葉を作った数学者のホルスト・リッテルは、厄介な問題の特徴を10個あげています。
①正解がない
②「解けた」という状態が見分けられない
③客観的な正誤は存在せず、まあまあ好ましい(better)か、好ましくない(worse)としかとられられない
④テストするすべがない
⑤どんな解決策も一時的な操作にすぎない
⑥要素分解できず、操作しようにも説明するすべがない
⑦それぞれが他に存在しない固有の問題である
⑧別の問題の症状として発現している。逆に言えばどんな解決を行っても、新たな問題が生じることは避けられない。
⑨さまざまな切り口で説明できても、全貌はつかめない
⑩でも、計画するものが間違いを許されない。
人口の集中、過疎、気候変動、感染症、災害対策、資本主義の歪み、少子高齢化、移民問題などは、すべてこのWicked Problemと言えるでしょう。
社会が数直線状を進まない今だからこそ、噴出している問題に向かうには、どうすれば良いのでしょうか?
デザインとは、「デザインすること」を続けること。
デザインとは、なんでしょうか、そしてデザインとはデザイナーだけが実施するものなのでしょうか?著者は、本書の中で絵、その考え方を「コ・デザイン」というみんなで一緒にデザインするという考え方で解放してくれます。
デザインは机の上ではなく、実際の場で何かを「する」ことです。人の気持や行動を、小さなところからでも具体的に動かしていくことができるからです。
デザインを「ひらく」
デザインが昭和時代にカタカナで輸入された時に、「美しくする」「整える」というニュアンスで捉えるまでになってしまいました。本来、デザインとは、問題を、解き、解決策を提示するあるいはし続けることであるのですが、どうも、カタカナのデザインでは、その本質的な点が抜け落ちてしまっていると著者は指摘します。
だから、デザイナーだけがデザインをするということではなくて、生活のそこかしこにデザインの機会は潜んでいて、それを私たちが意識して、取り組めるかどうかなのです。
本来は、デザインは、「何かをデザインする」ことであり、その中で対処していく過程であり、社会の人々のかかわりあいの中にある生きた活動です。
Designとデザイン
資本主義の中で、わたしたちは、専門分化に慣れすぎてしまったのかもしれません。日常生活の中が、無機質なプロダクトで埋め尽くされていることに憂慮し、意義を唱える運動が、アーツ・アンド・クラフツでした。1880年代からイギリスとの詩人、思想家であるウィリアム・モリスが主導しました。
そして、その根本的な考え方は、いまでも歓迎されるように思います。特に現代は、1880年代から経て、さらなるパラダイム・シフト(価値観の変遷)で、生き方・働き方も、自分で考え納得しなければなりません。
100年時代を自分で請け負って、「デザインし続ける」ためには、問題を俯瞰して捉える広い視野が必要です。
「コ・デザイン」でWicked Problemに立ち向かおう。
実際の利用者や利害関係者たちがプロジェクトに積極的にかかわっていく取り組みが世界中で活発になっています。閉じられた環境ではなく、積極的にひらいていくことを志向する、そんなデザインのあり方は、「コ・デザイン(Co-Design)」と呼ばれています。
「いっしょにデザインする」とは?
私は、この引用部分を読んで、デザインの民主化であると思いました。デザイナー含む他者に、一任してきてしまった「デザインすること」をもう一度、自分たちの手に取り戻さなくてはいけないのかもしれません。
たとえば、公共のあり方、生き方、働き方などなど。
過去の投稿で取り上げた書籍『くらしのアナキズム|松村圭一郎』(「【今頼るべきは、国家なのか?】くらしのアナキズム|松村圭一郎」)で、こんな言葉がありました。
だれかが決めた規則や理念に無批判に従うことと、大きな仕組みや制度に自分たちの生活をゆだねて他人まかせにしてしまうことはつながっている。アナキズムは、そこで立ち止まって考えることを求める。
「松村圭一郎著くらしのアナキズム」から
デザインにも今一度、立ち止まって、わたしたちが主導権を持つことが大切なのかもしれません。
そうしてものごとを「デザインしていく」ためには他者との協力がかかせません。そして、協力関係を作るためには、フラットな関係性、つまり、発注者・受注者という間柄を超える、立ち位置を作り出すことからスタートする必要もありそうです。
人と人の間(関係)を「デザインする」ことから、「コ・デザイン」は始まるのだと思いました。
公民館で主宰するイベントや、まちづくり、あるいは、空き家活用のイベントなどで、「コ・デザイン」の手法はすでに活用されているといいますが、「経済性」という側面から考えた時にやはり乗り越えるべき課題も存在します。
それが、
・「権利」の問題
・「管理」の問題
・「経営」の問題
です。
それぞれ、デザインの所有権がどこにあるのか?関係者が増えて、規模が広がることで全体をどうまとめるのか?そして何より、どのようにビジネスとして対価を得て永続性を図るのか?などの問題が発生します。
これらも、きっと複雑な問題と言えるでしょう。でも、Wicked Problemを解決する解決策も、複雑化してしまうのは仕方のないことだと思います。だからWicked Problemなのでしょうから。
わたしが思うに、大切なことは、一緒にデザインするという手段があり、それを活用することで、もう一度、わたしが主導権を持って、社会を作っていけるという手応えを得続ける必要がある、ということを認識することなのだと思います。
まとめ
- 問題が複雑化して、意地悪になっている。――人口の集中、過疎、気候変動、感染症、災害対策、資本主義の歪み、少子高齢化、移民問題など、むずかしい問題に直面しています。
- デザインとは、「デザインすること」を続けること。――デザインは表面的なことではなくて、「何かをデザインする」ことであり、その中で対処していく過程で、人とのかかわり合いのなかで解決を導くことです。
- 「コ・デザイン」でWicked Problemに立ち向かおう。――デザイナーを先導者にわたしたちひとりひとりが参画して、問題を解決する「コ・デザイン」手法があるということを知りましょう。
民主化に関する本を最近いくつか読んでいます。そして、この本もまさに民主化(デザインの)に関するテーマだと思いました。わたしたちが知らずしらずに手放してしまっているものごとのなんと多いことか、と視野が広がっているような気がします。