【自分起点で働くには?】ハウ・トゥ アート・シンキング|若宮和男

ハウ・トゥ アート・シンキング
  • 「個の時代」と、とつぜん言われるようになって、個人がやりたいことで生きていきましょう!という風潮に戸惑う人も多くあるのではないでしょうか?
  • 実は、そんなときこそ、アートシンキングという考え方が参考になります。
  • なぜなら、ロジカル/デザイン・シンキングと異なり、相手の課題に起点を発するのではなく、自分起点でものごとを捉えていく考え方であるからです。
  • 本書では、建築家・事業家として活躍する著者が、アートシンキングを捉える20の切り口を(ランダムに)紹介してくれます。
  • 本書を読み終えると、自分の思考がシェイクされて、新しいものごとの捉え方や生き方の模索をするヒントを得ることができるでしょう。

「アート・シンキング」とは?

①顕在的な課題を分析的に解決する「ロジカル・シンキング」
②潜在的な課題を共感的に見出し解決する「デザイン・シンキング」
③課題から出発せずに、自分の衝動によって価値に革命を起こす「アート・シンキング」

1・「アート・シンキング」はどうして生まれた?ビジネスにおける思考法の進化

2015年くらいから、アートシンキングという言葉が聞かれるようになりました。

アートシンキングとは、ビジネスにおいてアートの発想に倣う思考法です。

・アートの創造プロセスにならう(倣う/習う)
・課題解決ではなく自己動機を重視
・価値を革新する

などに重きを起きます。

たとえていうなら、わがままなあかちゃんのような発想が、アートシンキングであると著者はいいます。

ロジカルシンキング以降、さまざまなフレームワークが使用され、見える課題から、見えない課題へ。そして、相手起点から、自分起点のものごとへ、より複雑で見えないことがらを対象にするようになっていきました。

昨日、読んだ「【価値があるとは、そもそも何か?】教養としてのお金とアート|田中靖浩,山本豊津」で、価値について欠かれていました。

田中 (中略)個人の自立が前提となって、価値や価格の議論が始まります。近代社会では自立している個人が価値をつくり、それを他人も必要とすれば価格が生まれるのです。自分がつくったものを他人が認めないと、価値や価格にはならない。だから価値や価格は「社会関係」であると言えます。

教養としてのお金とアート|田中靖浩,山本豊津より

まさに、自分の中で価値を育むことがこれからの「個の時代」を生きていく上で大切になります。

それがない限り、人と会って、価格のすり合わせがされることもないのです。この対談本の中で、面白かったのは、「組織のカプセル」の中に個が閉じ込められてしまっているという表現です。

カプセルの中から、一人ひとりの生身の人間として勝負しなくてはいけません。この闘いは、(とくに始める時に)非常に苦しいのですが、でも、そのままカプセルの中で死んでいくのはもっと辛いものがあります。

アート・シンキングは、「おなじ」より「ちがい」を大切にする。

そう、「工場」パラダイムとはまったく反対に、「アート」パラダイムでは「ちがいが価値で、おなじは悪」なのです。

2・アートの価値はなにで決まる?「おなじ」より「ちがい」を生むチカラ

近代から続く、工場(=会社)で勤務していると、同じ時間に、同じ作業で、同じだけの効率を求められます。人間は、いつしか、機械に支配されて、自分のいびつさを忌み嫌うようになってしまいました。みんなと同じように出世して、みんなと同じようにクルマにのって、マイホームを持つ生き方を、みんなが追っていました。

でも、これは成長社会が前提で、定常社会では、同じようにみんなに理想の物語を提供することができなくなってしまいました。

だからこそ、いま、「個の時代」と言われ、個人のWILLに従って生き抜く時代が求められているのです。

これは、「個」への責任転嫁でしょうか。

わたしは、そうは考えません。せっかく面白い時代に生きているのだから、目一杯自分のチカラで、向かい合って、闘う姿勢を忘れたくないからです。

アートが本質的に「変化」を志向するものであるとすると、アートの本質には「美」は必ずしも含まれないことになります。なぜなら、「変化」は「美」と背反するからです。美人は三日で飽きるけど、という言葉がありますが、美は本来、秩序や安定に伴う性質です。その典型は対称性や黄金比、和音、などなど。

10・アートは変幻自在?真・善・美に挑む精神の冒険

自分自身から沸き起こるチカラで、社会や時代の常識をゆらし、拡張して変化をもたらすような、生き方こそが、アートなのであると捉えたいものです。定常はない。つねに移ろいゆく自分との闘いを忘れずにチャレンジしていきましょう。

岡本太郎も、こんなことを語っています。過去の投稿「【自分の人生を引き受ける覚悟はあるか?】自分の中に毒を持て|岡本太郎」から引用します。

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。

自分の中に毒を持て|岡本太郎より

岡本太郎は、「闘い」なんだとその著書で繰り返し語っています。人は本来、みな違うはずなのに、自分で型にはまってそれに抗うことをしないのは、よくない!

まさに、本書で取り上げられている「アート・シンキング」そのものを生き方として実践し続けたとも捉えることができます。

私たちのどんな苦しみをアートシンキングは解放するのか?

1つは「計画」や「正解」に型をはめられる息苦しさ。本来の「自分」はいびつなのに、無理やり誰かの型に押し込まれ、はみ出たところは切り捨てられます。「ちがい」が認められず、「あそび」のないぎゅうぎゅうの環境で、仕事のやりがいは希薄になります。

2つ目の苦しみ、それは裏切られる不安です。「工場」を信じ、「自分」を捨てて「型」にはまっても、約束された将来はもはや保証されません。そして一度投げ出されてしまえば、その工場の「型」でつくられた「部品」は単体では使いものになりません。しかも、おなじような「部品」は大量に余っているのです。「息苦しさ」を我慢して受け入れた「型」は僕らを救うどころか、価値を減らすものになってしまいました。

この2つの苦しみへのルサンチマンが、「仕事」を「遊び」と対立するものにしています。「仕事は我慢」であって、楽しいものではあってはならない。みんな我慢すべきだ。

おわりに

やや長い引用をしましたが、昨今の働き方にまつわる苦しみを端的に表されている文だと思いました。

わたしたちは、人類史上初めて、自分という「個」と向き合わなければならない、変化の時代を生きているのだと思います。

「工場」以前の時代では、ムラ社会や自然環境が生き方を規定してくれていました。それはそれで大変な時代であったと思いますが、今に比べれば、「そもそも」を考える必要がなかった分、ある程度気楽なものだったでしょう。人生も短かったので、往生も潔かったというかなんというか。

100年時代、なにが大変かというと、第2、第3の人生の設計をしなくてはならないということではないと、私は思います。仕事はあります。選ばなければ。

では何が大変かというと、変化し続ける時代と、変化し続ける自分の間で、闘いをし続けることが前提となるからだと考えています。

まとめ

  • 「アート・シンキング」とは?――自分起点で、ものごとを捉えること。そのことで、「価値」に革命をもたらす。
  • アート・シンキングは、「おなじ」より「ちがい」を大切にする。――工場パラダイムから抜け出して、自分起点でものごとを捉えましょう。すると否応がなしに「ちがい」が際立ちます。
  • 私たちのどんな苦しみをアートシンキングは解放するのか?――生き方・働き方に関する「型」からの解放。これがアートシンキングによって可能になります。

現代の働き方の問題を俯瞰してみながらも、「アート・シンキング」によって光をさしてくれる、とても示唆深い本だと思いました。ひとつひとつの「カード」が志向をシェイクしてくれて、新しい価値観を見出すきっかけを多くの人にもたらしてくれると思います。

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